乾隆は歴代皇帝の中で最も幸せな存在だったのでしょうか?
清の皇子や皇帝の一日を知れば、清朝の皇帝に「幸せ」なんて存在しなかったことがわかる。清代の著名な学者・趙翼は乾隆朝の首席軍機章京として、軍機処で勤務中に見た宮廷生活を記録している。趙翼によれば、夜間の緊急事態に備えて軍機処は常時宿直者を置いていた。趙翼が宿直明けの午前5時頃、まだ暗いうちに出勤すると、皇子たちが提灯を手に列をなして書斎へ向かう姿を目撃した。
清の皇子や皇帝の一日を知れば、清朝の皇帝に「幸せ」なんて存在しなかったことがわかる。清代の著名な学者・趙翼は乾隆朝の首席軍機章京として、軍機処で勤務中に見た宮廷生活を記録している。
趙翼によれば、夜間の緊急事態に備えて軍機処は常時宿直者を置いていた。趙翼が宿直明けの午前5時頃、まだ暗いうちに出勤すると、皇子たちが提灯を手に列をなして書斎へ向かう姿を目撃した。趙翼は「私は読書で身を立てたが、若い頃は怠け者でよく朝寝坊した。金の匙をくわえて生まれた皇子たちがこれほど勤勉とは」と感嘆している。
だが皇子たちよりさらに早起きな人物がいた。乾隆帝である。毎朝4時半に養心殿を出発し、軍機処へ向かう道すがら、各宮門で御前侍衛が「震天雷」と呼ばれる爆竹を鳴らした。これは「毎日を盛大に始めたい」という乾隆帝の縁起担ぎだった。爆竹の音を合図に皇子たちは起床して学問に励み、后妃たちは請安(挨拶回り)や針仕事を始める。趙翼は近づく爆竹の音を聞くたび「これから長時間労働(996)が始まる」と覚悟を決めたという。週1回の宿直でさえ「体が空っぽになる」と嘆く趙翼から見れば、乾隆帝が60年以上もこの生活を続け、有事の際は自ら対応策を指示する姿は「常人ではない」と映った。
この生活習慣は乾隆帝が89歳で退位後も変わらず、太上皇となっても養心殿を離れず、嘉慶帝は太子時代の住まい・毓慶宮に留まった。
《高宗実録》によると乾隆帝の1日は以下の通り:
時間 |
行動内容 |
---|---|
4:30 |
起床・爆竹鳴らし |
5:00 |
朝議 |
7:00 |
皇太后への請安 |
8:00 |
朝食・政務処理 |
13:00 |
大臣との会談 |
15:00 |
学者との学術討論 |
17:00 |
后妃と文物鑑賞・書画に印章 |
19:00 |
夕食・侍寝(妃との面会) |
21:00 |
夜間政務処理 |
22:00 |
就寝 |
前線から緊急軍報が届けば深夜でも直ちに軍機大臣を召集し、十全武功と呼ばれる戦役の多くはこうした夜間会議で決された。仕事・后妃との交流・爆竹鳴らし――乾隆帝の人生は「質素で退屈」に見えたが、その実態は激務の連続だった。
乾隆帝が西洋を軽視したとの批判があるが、実は欧州情勢に精通していた。産業革命が始まり西洋が中国を追い越しつつある時代に、乾隆帝は重大なプレッシャーを感じていた。ロシアのエカチェリーナ2世との国境紛争では「中国領で騒動を起こせば即時開戦」と恫喝し、撤退させた事例がある。
貿易政策でも欧州を重視し、広州十三行を「天子南庫」と呼んで直轄管理した。海外貿易で発生した主な事件:
年 |
事件名 |
概要 |
乾隆帝の対応 |
---|---|---|---|
1759 |
洪仁輝事件 |
英国商人が広州海関の不正を直訴 |
1. 李永標解任 |
1784 |
ヒュース夫人号事件 |
礼砲事故で中国人死傷 |
1. 英国水手の死刑宣告 |
特にヒュース夫人号事件では、広州の繁華街で西洋諸国の大使を招いて水夫を絞首刑に処し、アヘン戦争70年前に清朝の威信を示した。この事件から2年後、マカートニー使節団が来訪した際、乾隆帝が英国の軍事技術に関心を示さなかった理由は「2年前に帆船同士の戦いで英国に勝っていたから」との見方がある。
内政でも外交でも「剛」を貫いた乾隆帝の人生は、まさに「硬派一筋」そのものだった。爆竹の音に始まり、終日続く政務、列強との駆け引き――この皇帝の日常は、巨大帝国を支える「孤独な戦い」の連続だったのである。