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もし秦の二世皇帝が適切に統治していたなら、秦王朝は二代で滅亡を免れただろうか?

誰がやっても避けられなかったんだ。秦朝の問題は人口問題と土地の固定化問題で、この二つを解決しなければ誰が来てもどうにもならない。逆に胡亥の時代に至っては、もう誰が来ても手の施しようがなかった。秦朝滅亡の原因については諸説あるが、私は土地の固定化問題と人口爆発問題が本質だと考えている。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

誰がやっても避けられなかったんだ。秦朝の問題は人口問題と土地の固定化問題で、この二つを解決しなければ誰が来てもどうにもならない。逆に胡亥の時代に至っては、もう誰が来ても手の施しようがなかった。

秦朝滅亡の原因については諸説あるが、私は土地の固定化問題と人口爆発問題が本質だと考えている。土地問題はさらに官吏の腐敗問題につながり、他の原因は全てこの二つの問題から派生した変種に過ぎない。

政権の存在意義は民生にある。民生問題を解決できなければ政権は存在価値を失い、流民が大量発生すると反乱勢力が跋扈する土壌が生まれる。本題に入ろう。

紀元前216年、始皇31年(統一6年目)の夜、咸陽で始皇帝が盗賊に襲われた事件が起きた。その後20日間の治安粛清が行われたが、表面上は治安問題でも、本質は民生問題だった。

商鞅の改革後の秦は「道に落とし物があっても拾わず、夜も戸締り不要」だったのに、咸陽で強盗が出るのは異常だ。単発事件なら理解できるが、現実は違った。同年の記録では全国の米価が一石1600銭まで暴騰している。

米価の概念を説明しよう:

 

時代

状況

米価(石あたり)

治世

通常時

数十銭

前漢文帝期

安定期

5銭

春秋戦国

平時

30-50銭

天災時

干ばつ・洪水等

最大500銭

楚漢戦争期

戦乱期

5000-10000銭

秦始皇帝期

治世期(紀元前216年)

1600銭


治世である秦の米価が平時の320倍、天災時の3.2倍、春秋戦国の30-50倍という異常事態。この年「黔首自実田」政策(土地調査令)が発布され、土地国有化への不安から物資買い占めが発生し、貨幣価値が暴落した。政府は100戸ごとに米600斤と羊2頭を支給する緊急対策を講じたが、財政が崩壊し物々交換が蔓延、度量衡統一も事実上失敗した。

土地調査令発布の背景には土地の固定化問題があった。秦は統一前から授田可能な土地が不足し、王翦が楚征伐前に土地を要求した逸話が象徴的だ。統一後の人口は1600-1800万から2000-2500万に急増(葛剣雄『中国人口発展史』)、土地再分配なしでは国家維持不可能となった。

この時点で秦は悪循環に陥った:

 

  • 土地解放 → 既得権益層の抵抗 → 物価暴騰

  • 物価暴騰 → 金融崩壊

  • 官僚腐敗 → 行政機能停止

  • 授田不能 → 軍功爵制崩壊

  • 人口増加 → 民生崩壊


紀元前215年以降の政策は全てこの危機への対応だった:
 

  • 長城・直道・阿房宮建設(人口削減)

  • 百越遠征・匈奴撃退(新土地獲得)

  • 徐福派遣(財政回復)

  • 廃地都市化(土地活用)


後世が「暴政」と批判するこれらの政策は、実は人口圧力への必死の対応だった。前6年間の善政が却って土地固定化を招き、人口増加を加速させた皮肉。始皇帝が統一直後に土地再分配を断行していれば、結果は変わったかもしれない。

漢文帝期も人口2000万だったが、楚漢戦争による人口減少(2500万→1500万)で土地が解放され、新たな循環が始まった。秦の「鯨飲」式統一と漢の「蚕食」式統一の根本的差異が、両王朝の命運を分けた。

秦は18世紀に渡る歴史を持ち、中国初の統一王朝として「中華の設計図」を残した。短命王朝と評されるが、その制度は漢に継承され、200年後に同じ問題を再現することになる。土地固定化と人口膨張という永遠のテーマは、現代に生きる我々への問いかけでもあるのだ。


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