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考古学界はなぜ夏王朝を認めないのか?

考古学が扱うのは物的証拠であり、ここで言う「物」とは書物に記された文字とは対照的な概念だ。「夏」という概念は文献から生まれたもので、周口店や半坡、二里頭といった考古学的概念とは次元が異なる。だから「考古学が認めるか否か」という問題ではなく、あくまで歴史学者がどう認識するか、あるいは考古学的証拠と文献がどの程度整合するかの問題に過ぎない。物が文字で記録されていないケースや、逆に文献記録に対応する物が発見されない(特定困難な)状況は、ごく普通のことだ。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

考古学が扱うのは物的証拠であり、ここで言う「物」とは書物に記された文字とは対照的な概念だ。「夏」という概念は文献から生まれたもので、周口店や半坡、二里頭といった考古学的概念とは次元が異なる。だから「考古学が認めるか否か」という問題ではなく、あくまで歴史学者がどう認識するか、あるいは考古学的証拠と文献がどの程度整合するかの問題に過ぎない。物が文字で記録されていないケースや、逆に文献記録に対応する物が発見されない(特定困難な)状況は、ごく普通のことだ。昨日起きた事件ですら目撃者(証言)と物的証拠を完全に一致させるのが難しいのだから、古代のことに至ってはなおさらである。

現状では、多くの国内研究者が二里頭遺跡(考古学的証拠)を夏王朝(文献記録)に対応すると考えているのに対し、相当数の国外研究者(必ずしも考古学者とは限らない)が懐疑的または否定的な立場を取っている。ただしこれを単純に国内外の違いと捉えるのは疑問視されており、実際に国外でも二里頭遺跡やそこに代表される文明の発展段階自体は否定されていない。彼らの立場を具体的な事例で説明しよう:

ロタール・フォン・ファルケンハウゼン(羅泰)は『中国早期文明中「城市」の発展段階』(『徐苹芳先生記念文集 上』上海古籍出版社、2012)で次のように述べている:「興味深いことに、新石器時代後期の状況と同様、中国青銅器時代の大規模集落遺跡――主要国家の首都とされる遺跡でさえ――城壁を伴わない例が見られる。早期の事例として河南偃師の二里頭遺跡(図四-1)が挙げられる。これは中原地域における最初の成熟した王朝国家の首都かもしれない...」

『考古与文物』2012年第1期のインタビューでこう語っている:

Q:文献に記された夏王朝の存在について、国外の漢学界はどう見ていますか?

A:夏代を中国史の時間軸上の概念(紀元前X年~Y年)とする見方に異論はない。問題は『夏王朝』という概念がどの物質文化に対応するかだ。中国学界では夏王朝=二里頭文化期とする説がほぼ定着している。西洋でもこの説は認知されているが、純粋考古学的立場からすれば重要度は低い。西洋学者は中国古代文明を研究する際、社会複雑化プロセスといったより抽象的なテーマに関心が集中する傾向がある」

 

二里頭遺跡基本データ

項目

内容

出典

所在地

河南省偃師市

中国社会科学院考古研究所(2015)

推定年代

紀元前1900~1500年

総面積

約300万㎡

宮殿区

7万㎡(最大規模)

二里頭遺跡発掘報告書

青銅器工房

5カ所確認

2018年最新調査

出土土器総数

10万点以上

 

学説対照表

立場

主要論点

根拠

国内主流説

二里頭=夏王朝都城

①文献(竹書紀年等)との地理的一致
②放射性炭素年代測定結果

国外懐疑派

文献と遺跡の直接連携不可

①甲骨文字以前の文字記録不在
②遺物に王朝名記載なし

折衷説

社会発展段階としての「夏」

①宮殿遺構の階層差(300%増)
②青銅器生産量(前代比500%増)


厳密に言えば夏朝問題はまず文献史学の課題であり、考古学と直接関係しない。西洋漢学界には文献研究において、まずその成立時期と性質を厳密に検証する習慣がある。例えば『孟子』の夏王朝関連記述を扱う際、当該文章の文脈や執筆意図を精査する。換言すれば、『孟子』を夏朝史の信頼できる情報源と見做さず、戦国時代人の記憶――当時の政治的意図を反映した叙述――として扱う。考古資料で『孟子』記述の真偽を検証すること自体、そもそも資料の性質上困難だ。

ただし否定できないのは、二里頭に大規模な国家が存在した事実である。その社会構造は先行する新石器時代後期とは次元が異なり、中国における最初の本格的国家の誕生――西洋学界で「社会複雑化の突破」と呼ぶ現象――を示している。これが従来言われてきた「夏朝」か否かは考古学的には重要ではなく、重要なのは当時の社会発展水準を実証できる点だ。この段階が当時どう呼ばれ、後世どう記憶されたかは、考古学の必須課題ではない。


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