越国の結末はどのようなものだったのか、最後はなぜ戦国七雄になれなかったのか?
紀元前473年、これは戦国時代3年目にあたる。『史記』の記述によれば、この時期越軍は江淮以東を席巻し、諸侯が祝賀に訪れ、越王勾践は「覇王」を称したという。しかし越が戦国八番目の雄とならなかったのは、列強の争いに最後まで耐え切れなかったためだ。越の滅亡時期については史家の間で大きな議論があるが、政治的実体としての重要性を失ったのは、ほぼ越王無強の時代と見なされている。無強は勾践の五世孫で、名前からしてどうにもダメそうな雰囲気だが、実際に悲惨な最期を遂げた。
紀元前473年、これは戦国時代3年目にあたる。『史記』の記述によれば、この時期越軍は江淮以東を席巻し、諸侯が祝賀に訪れ、越王勾践は「覇王」を称したという。しかし越が戦国八番目の雄とならなかったのは、列強の争いに最後まで耐え切れなかったためだ。越の滅亡時期については史家の間で大きな議論があるが、政治的実体としての重要性を失ったのは、ほぼ越王無強の時代と見なされている。
無強は勾践の五世孫で、名前からしてどうにもダメそうな雰囲気だが、実際に悲惨な最期を遂げた。『史記』によれば、彼は斉国の策略に嵌められて死んだ。越の東は海、南は福建・広東・広西・ベトナムといった同族ながら未開の地域で、これらを攻めても経験値稼ぎにはならない。ゆえに越の拡大方向は北の斉か西の楚しかなかった。無強が北伐を計画すると、斉は使者を送り「楚こそ正しい標的だ」と国際情勢を滔々と説いた。無強はこれに乗せられて楚を攻めるが、楚の威王に大敗し殺害される。楚軍は東進を続け、旧呉の地を併呑し浙江まで到達した。
主な戦略拠点比較
地名 |
現代位置 |
歴史的戦役例 |
地形的特徴 |
---|---|---|---|
居巣 |
安徽・巣湖東北 |
呉の第一次楚侵攻地、曹操と孫権の濡須の戦い |
濡須河の要衝 |
鍾離 |
安徽・鳳陽東北 |
呉の反楚同盟結成地、韋睿の北魏軍撃破 |
淮河流域の防衛線 |
州来 |
安徽・鳳台 |
呉の郢都侵攻拠点、淝水の戦い(八公山) |
八公山と淝水の天然の要害 |
春秋後期の情勢を見るに、越の急激な衰退は表向き無強の責任だが、実は勾践の全盛期から短命の兆しがあった。文種や范蠡を処刑したように、人材を軽視する国は長続きしない。しかし真の問題は別にある。
『史記』越王勾践世家は、呉滅亡後の勾践が「淮上の地を楚に与え、宋に返還し、魯に泗東百里を分け与えた」と記す。この「淮上地」こそ、呉楚70年抗争の主戦場だった。中国史において江南政権が全国統一するのは至難の業で、長江依存は危険極まりない。効果的な防衛体系の要は江淮以北にあり、「江を守るには淮を守れ」と言われる所以だ。勾践がこの要衝を手放したのは自殺行為に等しく、無強時代まで存続したのは奇跡と言える。
ただし他史料によれば、勾践は会稽から琅邪(山東・膠南)へ遷都し、北上覇権を狙っていたとする。淮上地を放棄すれば首都が飛び地化するため、実際には楚が奪取した可能性が高い。史書に記録が少ないのは、楚の征服が容易だったからだろう。
勾践が小国で大呉を滅ぼしたのは幸運が大きい。夫差が二千里も北伐したことで後方手薄となり、越は背後突きを成功させた。だが勝利の代償は大きく、短期では楚の圧力に晒され、長期的には呉より脆弱な経済基盤と原始的な行政機構がネックとなった。
越の政治制度は断片的で、記録からは「武の狂人」という印象が強い。水軍に強く、出産奨励政策(『呉越春秋』によれば慰安婦部隊まで組織)で知られるが、中原諸国に比べ制度整備が遅れていた。滅呉後の領土は斉・秦を超える広大さながら、統治システムは二つの選択肢に悩んだ。
-
伝統的宗法国家:封建制で緩やかに支配
-
郡県制:官僚機構を整備
しかし越には宗法の伝統がなく、封建制は戦国時代に通用しない。官僚制を導入するには識字率が決定的に不足していた。秦でさえ「法を以て教えと為し、吏を以て師と為す」が必要で、雲夢睡虎地の墓から出土した下級官吏・喜の棺に法律条文がびっしり書かれていた事実が、その文化水準の高さを示す。越にこのような人材層は存在せず、郡県制運営は不可能だった。
冷兵器時代、野蛮さは時に優位に働くが、越の急衰退が証明するように、それは一時的なものに過ぎない。仮に勾践が土地を贈与していなくとも、呉を滅ぼした時点で楚に大いなる貢献をしたことになる。春秋時代に楚を苦しめた呉の脅威が、戦国時代には越では再現できなかったのだ。
越国主要年表
紀元前 |
事件 |
関連人物 |
影響 |
---|---|---|---|
473年 |
越が江淮以東を制圧 |
勾践 |
諸侯が朝貢、覇王を称す |
465年 |
勾践死去 |
- |
衰退の兆候始まる |
342年 |
無強の楚征伐 |
無強、楚威王 |
越軍壊滅、無強戦死 |
306年 |
楚による越完全征服説あり |
- |
政治的実体としての越消滅 |
越の歴史は、野蛮な武力が制度構築なきまま膨張した末の脆さを如実に示すケーススタディと言えよう。勾践の奇跡的勝利が、皮肉にも楚の台頭を助ける結果となったのである。