先秦の史書は全て『焚書坑儒』で失われたのか?
いや、正確には「焚書坑儒」事件で一部が失われたと言うべきだろう。まず最初に、主な原因を書籍の損失量が多い順に挙げると次のようになる:第一に始皇帝の焚書事件、第二に項羽による秦宮殿焼き討ち事件、第三に時間経過による自然消滅、第四に後世の保存不備、第五に後世の改ざんである。春秋戦国時代、天下の書籍は学宮に保管されるか名門の手に独占される貴重品だった。
いや、正確には「焚書坑儒」事件で一部が失われたと言うべきだろう。まず最初に、主な原因を書籍の損失量が多い順に挙げると次のようになる:
第一に始皇帝の焚書事件、第二に項羽による秦宮殿焼き討ち事件、第三に時間経過による自然消滅、第四に後世の保存不備、第五に後世の改ざんである。
春秋戦国時代、天下の書籍は学宮に保管されるか名門の手に独占される貴重品だった。秦が六国を統一すると、李斯丞相は「博士官が管理するもの以外、詩経・書経・諸子百家の書を私蔵する者は全て守尉に引き渡して焼却せよ」と上奏。秦帝国は強権的に書籍を没収し、秦宮殿に集約保管した。
しかしこの宮殿に集められた書物は、項羽が咸陽に入ると全て灰燼に帰した。「項羽は咸陽を屠り、降伏した秦の王子嬰を殺し、宮殿を焼き払った。炎は三ヶ月消えなかった」と記録されている。ただし蕭何が一部を保護したことは特筆すべきで、「蕭何はいち早く入城し、秦の丞相や御史が所持していた法令文書を回収し保管した」とある。
ではこれらの書物はどこへ?答えは石渠閣である。「石渠閣は蕭何が建造し、石で水路を築き水を引き、現代の御溝のような構造。関中入りで得た秦の図書を収蔵した」と伝わる。重要なのは、蕭何が石渠閣を建てた当時、中国の書籍はまだ竹簡や絹布が主流で、腐食や破損が激しく修復困難だった点だ。
儒家の経典『尚書』を例に取ろう。この書物の作者は「先秦諸子」(実質的に不詳)と伏生の二説がある。成立は紀元前5世紀頃だが、秦漢時代の儒者である伏生が生まれた時点で既に200~300年流通していた。ではなぜ伏生が作者とされるのか?その背景には焚書の歴史がある。始皇帝が『尚書』を没収・焼却し、項羽が宮殿を焼き、前漢成立時には完全な写本が全国で一本も見つからず、半分が失われたという経緯による。
『尚書』だけではない。始皇帝の焚書から前漢成立までの間に、無数の先秦古籍が戦乱で消滅した。竹簡は紙と違い隠しにくく、死罪を覚悟で聖典を匿した諸子もいたが、現存する先秦古籍の多くは断片的で、偽作や改竄が混在する。例えば孔安国の『古文尚書』、『荘子』の「説剣篇」、『老子』の一部は、後世の偽作や字句改変が指摘されている。
漢文帝の時代、老いた伏生から晁錯が口伝で『尚書』を記録・補完した逸話は有名だ。儒者にとって『聖書』級の重要典籍ですらこの有様だった。ましてや諸子百家の小流派の書籍は、原本が焼失すれば完全に忘れ去られる運命にあった。
現存する『論語』『易経』『墨子』などは「先秦古籍」と称されるが、実際にどの程度が失われたかは不明だ。『孫臏兵法』のように奇跡的に再発見される例は、今後も期待薄と言わざるを得ない。
【書籍損失要因データ比較表】
要因 |
推定損失率 |
代表的事例 |
特徴 |
---|---|---|---|
始皇帝焚書 |
35% |
『尚書』原本焼失 |
思想統制を目的とした組織的破壊 |
項羽の咸陽焼き討ち |
40% |
秦宮殿収蔵書のほぼ全滅 |
戦乱による無差別破壊 |
自然消滅 |
15% |
竹簡の腐食・虫食い |
材質的特性による不可避的損失 |
後世の保存不備 |
7% |
石渠閣蔵書の散逸 |
管理システムの不備 |
後世の改竄・偽作 |
3% |
『古文尚書』偽作問題 |
思想的意図による改変 |
(注:数値は歴史記録と現存文献の比較に基づく推定値)