楚の声王はなぜ盗賊に殺されたのか?
楚声王に関する史籍の記載は極めて簡素である:簡王が没し、子の声王当が立つ。声王六年、盗が声王を殺し、子の悼王熊疑が立つ。これ以上ないほどの簡潔さが、楚声王の楚史上における存在感を特に低いものにしている。彼が即位して六年目に「盗」に殺されたというたった一文がその生涯の全てであるかのようだが、実際は決してそれだけではない。
楚声王に関する史籍の記載は極めて簡素である:
簡王が没し、子の声王当が立つ。声王六年、盗が声王を殺し、子の悼王熊疑が立つ。
これ以上ないほどの簡潔さが、楚声王の楚史上における存在感を特に低いものにしている。彼が即位して六年目に「盗」に殺されたというたった一文がその生涯の全てであるかのようだが、実際は決してそれだけではない。
春秋戦国時代に盗賊が多かったのは公然の秘密であったが、強盗が首都・王城の真ん中で公然と殺人を犯し、しかも殺されたのが国君というのは不可解極まりない。さらに奇妙なのは、楚声王の子である楚悼王が即位後も父の死因を追及しなかったことで、あたかもこれが「天知る地知る我知る彼知る」の暗黙の了解事態であり、楚声王・悼王父子が受動的な立場にあったかのようである。少なくとも短期的には復讐を果たせなかった楚悼王の立場から見れば、この仇敵はいかなる勢力を持っていたのか、楚の国君すらも恐れをなすほどの力を有していたのかが疑問となる。
楚声王が盗賊に殺害される前年(紀元前403年)、重大な事件が発生している。周の威烈王が正式に韓・趙・魏三家の当主を諸侯として承認し、卿族による簒奪を追認したのである。これは諸侯たちに強い衝撃を与えた――「わが国に卿族なしと言えようか? 権勢を振るう卿族に朝政を牛耳られていない国などあるのか?」と。
楚も中原諸国を模倣し、公族成員が卿職を担う制度を採用していた。時が経つにつれ、幾つかの大卿族勢力が形成されていた。さらに封君制を実施しており、これは周天子による諸侯封建とは異なり、一諸侯国が国内に「君」を封じる制度である。封君制が発展するにつれその数は膨大となり、最盛期には60余りに達した。各封君は自らの領地と「君号」を有し、地方で強大な権力を享受していた。これが拡大すれば楚国王室の領地と財産を分割するに等しく、本来楚王が有すべき権益が侵食されることで王権は大きく危殆に瀕し、やがては国君を傀儡化して実権を掌握するに至る可能性すらあった。こうして「大臣太重(重臣の権勢過重)・封君太衆(封君の数過多)」という深刻な状況が生じ、要約すれば卿族と封君の台頭に伴う君権の衰退である。
目前に晋の瓦解という前例がある以上、これを教訓とせざるを得ない。
楚声王に大した才能はなかったが、将来楚が晋と同じ道を辿ることを望まなかったのは確かであろう。彼はおそらく公卿世族の抑制、あるいは彼らの特権の一部回収を図り、徐々に改革を進めようとしたと考えられる。しかし一度手にした権益を貴族たちが簡単に手放すはずもない。楚の卿大夫層は既に強大な勢力を築いており、「国君が束縛を嫌うなら、新しい国君を立てればよい」という状況下で、彼らの利益に手を付けることは許されなかったのである。
項目 |
数値 |
---|---|
封君数(最盛期) |
60以上 |
楚声王在位期間 |
6年(前407-402) |
楚悼王即位年 |
前401年 |
呉起改革開始時期 |
前386年頃 |
改革期間 |
約15年 |
さらに決定的だったのは、楚声王に信頼できる支持基盤が存在しなかった点である。彼が単独で楚の積弊を改革することは極めて困難で、たとえ国君の地位にあっても多くの制約を受け、一歩間違えれば命を落とす危険性を孕んでいた。実際、楚の国君は「高危険職」であり、多くの君主が善終せず、簒奪によって政治生命を絶たれることが珍しくなかった。
貴族による国君暗殺は決して特別な事件ではない。楚声王が旧貴族の利益に触れようとした時、彼らは行動を起こしたのである。死士か買収した刺客かは定かでないが、「盗賊」と称する者が白昼堂々と楚声王の命を奪った。その後即位した楚悼王は教訓を汲み取り、貴族層を刺激することを避けるため父の仇討ちを急がず、忍耐強く時機を待った。彼は新たな人材を求め、楚に新生をもたらす人物を待ち続けたのである。
楚悼王が待ち続けた十数年の歳月を経て、遂に一人の男が現れる。彼こそ呉起であった。楚悼王の支持を得た呉起は楚国で変法を開始し、貴族階級に対する強力な打撃を加えた。『史記』孫子呉起列伝における記載は簡潔で「不急の官を捐て、公族の疏遠なる者を廃す」とあるのみだが、『淮南子』『説苑』『韓非子』などには爵禄削減に関する記述が散見される。
改革内容 |
出典 |
---|---|
爵禄削減令 |
『淮南子』泰族訓 |
封君三世而収爵禄 |
『韓非子』和氏篇 |
均爵平禄 |
『説苑』指武篇 |
貴族の辺境移住 |
『呂氏春秋』貴卒篇 |
大臣威権削減 |
『史記』蔡沢列伝 |
「封君太衆」への対策と並行して「大臣太重」問題にも着手した。『史記』蔡沢列伝には「大臣の威重を卑減し、無能を罷め、無用を廃し、不急の官を損じ、私門の請いを塞ぐ」と記される。さらに楚の広大な未開発地を活用するため、貴族を辺境に移住させて土地開拓を推進する政策を実施した。
この一連の改革により、楚は「大臣太重・封君太衆」の弊害を解消し、軍事力強化のための財源を確保した。呉起の改革によって楚は再び強大化を遂げた点を考慮すれば、楚声王の死は無駄ではないと言える。この血塗られた現実がなければ、息子の悼王は改革の必要性を感じつつも敢えて手出しせず、密かに力を蓄え、適切な時期に変法を断行して貴族層を効果的に抑制することはできなかったであろう。しかし悼王の早世により改革は中断し、呉起も貴族たちの反撃に遭って悼王の遺体にすがりながら最期を迎えることとなった。
呉起の変法は突然終幕を迎えたが、楚声王が貴族の暗殺に倒れることも、悼王が死後に遺体を辱められることも予測し得なかった。しかし仮に呉起が死んでも、改革の中断後も貴族層は大きな打撃を受けており、楚は最終的に晋のような瓦解を免れることができたのである。