百年以上安定して続いた秦の制度が、なぜ秦王朝は二世で滅亡したのか
1975年12月、湖北省雲夢県睡虎地の墓地群から大量の秦簡が出土した。この発見は秦帝国史研究を一変させ、その後は学術論文はもちろん通俗的な啓蒙書でさえ、睡虎地秦簡の最新研究成果を反映していないものは陳腐で浅薄と見なされるようになった。特に注目されたのは2通の家書で、中国現存最古の家書とされる。黒夫(こくふ)と驚(きょう)という二人の兵士が楚征伐戦の最前線から故郷の兄・衷(ちゅう)に宛てたものだ。原文は難解で長文のため引用しないが、内容を概説すると:
1975年12月、湖北省雲夢県睡虎地の墓地群から大量の秦簡が出土した。この発見は秦帝国史研究を一変させ、その後は学術論文はもちろん通俗的な啓蒙書でさえ、睡虎地秦簡の最新研究成果を反映していないものは陳腐で浅薄と見なされるようになった。
特に注目されたのは2通の家書で、中国現存最古の家書とされる。黒夫(こくふ)と驚(きょう)という二人の兵士が楚征伐戦の最前線から故郷の兄・衷(ちゅう)に宛てたものだ。原文は難解で長文のため引用しないが、内容を概説すると:
淮陽での戦況報告と、兄・母・妻ら家族への形式的な挨拶が前置きされ、核心はただ一点「金を送れ!」に集約される。弟の驚は若いだけに要求が直截的で「借金が底をついた。母上、五、六百銭と布二丈五尺を至急送ってくれ。届かなければ死んでしまう。急いで急いで!」と切迫した調子。一方、兄の黒夫は落ち着いた口調ながら「衣服と金を送ってくれ。故郷で布が高騰しているなら現金を多めに送り、現地で布を調達したい」と述べ、途中で「必ず南軍宛に送るよう」と念を押す。金銭要求の切実さは弟と変わらない。
表1: 秦軍経済関連データ
項目 |
数値 |
---|---|
遷陵県常備軍数 |
30~40名 |
最大動員兵力(王翦) |
60万人 |
募兵1回あたり平均人数 |
143名 |
1日あたり食糧費用 |
2~3銭 |
刑徒労働日当相殺額 |
6~8銭 |
徭戍免除代納金(30日分) |
300銭 |
秦末刑徒人口比率 |
約20% |
この書簡が衝撃的なのは、秦軍兵士の困窮ぶりだ。後世の唐帝国でも兵士の自弁装備は普通だが、これほど切迫した金銭要求は例がない。秦軍が兵站を全く支給しないなら説明がつくが、秦律にその証拠は見当たらない。しかも秦の厳しい統制経済下、戦場で金を使う場所などあるのか?
2002年里耶秦簡の出土で謎が解けた。秦軍正規兵(乗城卒)は兵站支給を受けるが、黒夫らは臨時雇いの「募兵」で、食糧すら自費調達が必要だった。商鞅時代の制度では爵位第二級以上が「卒」とされたが、始皇帝期でも有爵者は少数。遷陵県の常備軍は30~40名規模で、全国動員しても前線正規軍は3~5万が限界だった。対する王翦の60万大軍は、圧倒的多数が自弁装備の募兵で構成されていたのである。
表2: 兵役体系比較
区分 |
身分 |
待遇 |
給与体系 |
---|---|---|---|
乗城卒 |
正規兵 |
食糧支給 |
無給 |
募兵 |
臨時徴用 |
完全自弁 |
徭役充当 |
刑徒兵 |
債務奴隷 |
最低限生存保障 |
債務相殺 |
募兵の実態は現代の「募集」とは正反対で、厳密には徭役の延長。戦場での日数が年間90日(3ヶ月分)の徭役義務を相殺する仕組みだ。しかし長期戦が常態化すると、食糧費・罰金・装備損耗賠償などで借金が雪ダルマ式に膨らむ。規定では30日以上の債務不履行で自動的に刑徒(国家奴隷)に転落、労働で1日6~8銭の債務を返済するが、移動費は自己負担で実質的な奴隷化が進行した。
表3: 刑徒経済メカニズム
要因 |
影響 |
数値例 |
---|---|---|
戦争長期化 |
債務累積加速 |
1年戦闘で500銭超 |
法規違反罰金 |
予期せぬ支出増 |
守備怠慢で戍1年追加 |
装備損耗賠償 |
高額賠償責任 |
盾1枚3800銭 |
刑徒労働効率 |
国家収入増加 |
1刑徒年産=平民3人分 |
人口比率 |
社会不安増大 |
全人口の20%が刑徒 |
驚が要求した500~600銭は、単なる食糧費ではなく、こうした法規違反の罰金や装備賠償を含んだ総額だった。秦の厳格な法律では、夜間警備の不備一つで本人と上司3名が連帯処罰される。戦場での些細な過失が、たちまち数年分の徭役追加や高額罰金に直結したのだ。
この制度の本質は「刑徒経済」にある。大規模工事や軍需生産を、最低コスト(生存ギリギリの衣食住)で強制労働させるシステムだ。戦争拡大→刑徒増加→生産力強化→更なる戦争拡大という"永久機関"のように見えたが、実際は破綻必至の悪循環だった。
書簡が整然と兄の墓に副葬された事実は、二人の弟が戦死したことを物語る。母親が必死で送金したか、子供たちが成長したかは不明だ。仮に生き延びても、刑徒転落と新たな徭役の連鎖から逃れられたとは考えにくい。爵位取得で一時的に平穏を得た家族も、結局はこのシステムに飲み込まれていったに違いない。
「風!風!大風!」と雄叫びを上げる秦軍の勇姿は後世の幻想で、現実は借金と不安に怯え、明日の生死すらわからない人々の集団だった。六国を倒せたのは、敵も同様のシステム下にあったからに過ぎない。だからこそ、あの無敵の秦軍が、10年後には農民反乱軍に蹴散らされる運命を辿ったのだ。士気の差が勝敗を決する時、強制徴用された兵士たちに戦う理由などなかったのである。