なぜ北方漢人には五胡の子孫がほとんどいないのか?
南北朝時代の幕開けは「五胡十六国」の乱立に端を発しているが、その根本原因は西晋の皇族たちが漢族軍団を率いて殺し合いを繰り返したことにあった。世兵制の下で職業軍人の補充は極めて困難であり、精鋭部隊が消耗し尽くすと、北方の少数民族政権が華北を掌握する道が開かれた。その後、北方では胡人政権同士の殺し合いが続き、南方政権も時折北伐を試みる状況が続いた。
南北朝時代の幕開けは「五胡十六国」の乱立に端を発しているが、その根本原因は西晋の皇族たちが漢族軍団を率いて殺し合いを繰り返したことにあった。世兵制の下で職業軍人の補充は極めて困難であり、精鋭部隊が消耗し尽くすと、北方の少数民族政権が華北を掌握する道が開かれた。
その後、北方では胡人政権同士の殺し合いが続き、南方政権も時折北伐を試みる状況が続いた。ではこの時期、北方の漢族は何をしていたか? 答えは「塢堡(うほ)建設」である。
当時の華北平野は中世ヨーロッパさながらに塢堡が林立し、漢人の豪族がこれらの要塞を支配していた。野外に放り出された漢人は胡人の奴隷となる以外に生き延びる術がなかった。胡人政権が塢堡を攻撃しなかった理由は単純で、採算が合わないからだ。支配を認めさせて税収を得られれば十分だったのである。
こうして成立した胡人政権は砂上の楼閣に等しかった。数万人規模の胡人軍団を中核とし、その下部に大小の塢堡主が連なる構造だったため、主力軍に大打撃を受けると瞬時に崩壊する脆弱性を抱えていた。
【北方少数民族消滅推移】
民族 |
推定人口(最盛期) |
主要滅亡原因 |
消滅時期 |
---|---|---|---|
匈奴 |
約50万 |
内部分裂+漢族反撃 |
4世紀後半 |
羯 |
約30万 |
北魏による討伐 |
4世紀末 |
氐 |
約40万 |
前秦崩壊 |
5世紀初頭 |
羌 |
約60万 |
北魏吸収 |
5世紀中頃 |
丁零 |
約20万 |
内戦消耗 |
5世紀後半 |
この淘汰プロセスは「養蠱(ようこ)」のような様相を呈し、人口の少ない匈奴・羯・氐・羌・丁零などの民族は数度の大戦で自滅した。最終的に生き残ったのは最強を誇った鮮卑族で、北魏を建国するに至る(実際には段部鮮卑、慕容鮮卑など複数の鮮卑勢力が先行していた)。鮮卑は後漢時代から最強の遊牧勢力として台頭しており、檀石槐の時代には漢王朝を撃破する実力を持っていた。もし檀石槐が早世せず組織化を完成させていれば、三国時代に早くも中原を掌握していた可能性すらある。
【鮮卑勢力変遷】
政権 |
軍事力規模 |
存続期間 |
滅亡原因 |
---|---|---|---|
段部鮮卑 |
3 - 5万 |
250 - 350年 |
前燕に併合 |
慕容鮮卑 |
8 - 10万 |
337 - 410年 |
北魏に吸収 |
北魏 |
15 - 18万 |
386 - 534年 |
六鎮の乱で分裂 |
西魏/東魏 |
各6 - 8万 |
535 - 557年 |
北周/北齊に交替 |
北周 |
12万→5万 |
557 - 581年 |
漢人勢力に簒奪 |
北魏の鮮卑族は15万規模の軍事力を保持していたが、急激な漢化政策と支配層の腐敗が内部分裂を招き、六鎮の乱が発生。爾朱栄の台頭と暗殺を経て東西分裂に至り、最終的に北周・北齊の対立構造が生まれた。この過程で鮮卑軍団は内戦の度に消耗を重ね、文字通り「自滅」の道を辿った。
北周は鮮卑兵力が枯渇したため、府兵制を導入して漢人豪族を登用する方針転換を実施。これが功を奏して南朝から巴蜀を奪取し、北齊の混乱に乗じて残存鮮卑兵力を殲滅した。最終的に漢人軍閥の楊堅が政権を奪取し、宇文氏をはじめとする鮮卑勢力を粛清。隋唐時代にかけて残存鮮卑人は完全に漢族に同化していった。
【少数民族統治比較】
項目 |
鮮卑系政権 |
清朝 |
生存要因 |
---|---|---|---|
支配期間 |
148年 |
268年 |
統治技術 |
人口規模 |
20万→0 |
100万→500万 |
緩やかな同化 |
軍事体制 |
部族兵制 |
八旗制度 |
漢人隔離 |
滅亡原因 |
内部分裂 |
辛亥革命 |
時代の変化 |
生存率 |
0% |
80% |
近代的寛容 |
単に軍事力を掌握するだけでは不十分で、持続的な人口維持が政権存続の鍵となる。清朝は少数民族政権として統治技術を極め、100万の満州族で2億の漢人を268年間支配した。しかし満州族人口は爆発的に増加せず、辛亥革命が近代的政権交代だったからこそ民族消滅を免れた。もしあの時代が古代であれば、鮮卑族と同じく歴史から消えていた可能性が高い。まさに「時代が味方した」ケースと言えるだろう。