古代の飢饉で、なぜ民衆は草の根を食べたり樹皮を噛んだりしても、川の魚やエビを捕らなかったのか?
1329年、陕西で大干ばつが発生し、史書には「大飢、民相食」のわずか5文字が記録されました。この5文字は、中国数千年にわたる苦難に満ちた民衆の生活を凝縮しています。旱魃被害の中、元々出仕を拒んでいた学者・張養浩は遂に決意を固め、救済官として被災地に赴きました。目の当たりにした惨状に震撼した彼は「興(栄えれば)、百姓苦しみ、亡(滅べば)、百姓苦しむ」という千古の名句を残し、人々の心を揺さぶりました。
1329年、陕西で大干ばつが発生し、史書には「大飢、民相食」のわずか5文字が記録されました。この5文字は、中国数千年にわたる苦難に満ちた民衆の生活を凝縮しています。
旱魃被害の中、元々出仕を拒んでいた学者・張養浩は遂に決意を固め、救済官として被災地に赴きました。目の当たりにした惨状に震撼した彼は「興(栄えれば)、百姓苦しみ、亡(滅べば)、百姓苦しむ」という千古の名句を残し、人々の心を揺さぶりました。
この8文字は歴史の回廊に響く重たい鐘の音のようで、無数の民衆の悲運を語り継いでいます。天災人災が降りかかる度、真っ先に犠牲になるのは常に庶民でした。古代の飢饉には「子を殺して母に捧げる」「子を交換して食う」という心臓を貫くような光景が付き物でした。
現代でも奇妙な疑問を呈する人々がいます:「なぜ古人は飢饉の時、魚を捕らずに草の根や樹皮、栄養のない観音土を食べたのか?彼らは愚かだったのか?」これらの問いかけは晋の恵帝の「何ぞ肉粥を食わざる」という名言を想起させます。更に滑稽なのは「漁は技術が必要で経験者が少ない」「魚料理に調理器具や調味料が不足」「魚は体を冷やすので多食できない」などと真面目に答える人々がいることです。しかし現実は極めて単純でした――魚が存在しなかったのです。
当時の自然環境を考察しましょう。干ばつは主に北方(中原・関中・西北)で発生し、元々河川が少ない乾燥地帯で陸稜作物に依存していました。旱魃が発生すると河川は干上がり、魚介類は生息地を失ったのです。
中国歴史大飢饉データ比較表
災害名 |
時期 |
被災地域 |
主な影響 |
持続期間 |
推定死者数 |
---|---|---|---|---|---|
陕西大旱 |
1329年 |
陝西省 |
河川干渇・人肉食発生 |
8ヶ月 |
47万人 |
明末陕西大飢饉 |
1637 - 1643年 |
陝西省 |
農地荒廃・李自成の乱発生 |
6年 |
250万人 |
丁戊奇荒 |
1877 - 1878年 |
山西平原 |
500万人餓死・村落消滅続発 |
2年 |
1300万人 |
南方は水資源に恵まれ飢饉が少なかったのに対し、北方では旱魃や洪水が頻発しました。特に明末の陕西大飢饉では連年干ばつが続き、太陽に焼かれた大地からは一粒の収穫も得られませんでした。初期は蓄えと野草で凌いだ民衆も、次第に糧食が尽きて餓死が蔓延。清朝光緒年間の「丁戊奇荒」では荒廃した農地に無言で死を待つ人々が溢れました。
一部地域では初期段階で魚介類を捕獲できたケースもありましたが、旱魃が深刻化するにつれ水源が枯渇。仮に灌漑用水として残った河川があっても、長期化すれば魚資源は枯渇します。人々は草根・樹皮へと食料を転換せざるを得ませんでした。
更に悲惨なのは大災害後に必ず発生する疫病です。飢餓で衰弱した身体では、草根を掘り樹皮を剥ぐのが精一杯。これらは極限状態における悲痛な選択だったのです。
歴史が証明するように、古代の人々が魚を食べられなかったのは愚かさではなく、文字通り「魚が存在しない」という絶望的な状況下での生存努力でした。草の根を噛み樹皮を啜る行為こそが、過酷な自然と社会環境に抗う最後の手段だったのです。歴史の悲劇とは、常にこのような残酷な選択の積み重ねで形成されてきたのでした。