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周朝はいかにして戦国時代末期まで生き延びたのか?

東周は表面上は危険に見えるけど、実は全然危なくないんだ。たまに東周が洛陽だけで細々とやってるのも逆に良かった面があって、周りの大国のサポートさえ得られれば生き延びられたからね。東周が洛陽に移ってからは、天子にとっては天下全体を気にしなくて良くなった。洛陽周辺の大国である晋と楚との関係をうまくやれば万事OK。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

東周は表面上は危険に見えるけど、実は全然危なくないんだ。たまに東周が洛陽だけで細々とやってるのも逆に良かった面があって、周りの大国のサポートさえ得られれば生き延びられたからね。

東周が洛陽に移ってからは、天子にとっては天下全体を気にしなくて良くなった。洛陽周辺の大国である晋と楚との関係をうまくやれば万事OK。晋と楚が後ろ盾になってくれれば、普通の勢力は東周を攻められないし、仮に天子が自滅行為をしても滅びる心配はなかったわけ。

例えば春秋時代の初め、周襄王が大失敗したことがある。先代の周桓王が鄭の荘公に敗れて矢傷を負った恨みを晴らすため、洛陽近くの狄(てき)国と組んで鄭を攻めようとしたんだ。その縁で狄の王女を王妃に迎えたけど、数年後に狄の横暴が嫌になって王妃を廃嫡しちゃった。

そしたら狄と繋がりのあった勢力が反乱を起こし、王族の王子帯が狄軍を引き連れて洛陽を占領。周襄王は鄭に逃亡を余儀なくされた。王子帯は廃妃だった狄の王女を新たに王妃にし、温(現在の河南省焦作市温県)に都を置いたという記録が残ってる。

十五年、王は狄の軍を下して鄭を伐たん。王は狄に恩義を感じ、その娘を后にせんとす。富辰諫めて曰く「平王・桓王・荘王・恵王みんな鄭の力を受けたのに、親族を捨てて狄に頼るなんて」と。王聴かず。十六年、王が翟后を廃すと、翟が攻め込み譚伯を殺す。初め恵后は王子帯を立てたがったので、党を組んで翟を招き入れ、襄王は鄭に亡命。子帯が王となり、廃された翟后と温に住む。(『史記・周本紀』より)

でも周襄王は晋に助けを求めて、晋の文公が王子帯と狄の勢力を滅ぼしてくれた。これが晋が東周を助けた最初じゃない。周平王と対立してた周携王も晋に殺されてる。

十七年、襄王が晋に危急を告ぐ。晋の文公が王を迎え叔帯を誅す。襄王は文公に珪鬯や弓矢を賜い、伯とし河内の地を与えた。(『史記・周本紀』より)

晋だけじゃない。南の楚も度々天子を助けてた。周襄王の孫・定王の時代には、楚の荘王が王畿近くの陸渾(りくこん)の戎を討伐してる。

定王元年、楚の荘王陸渾の戎を伐つ(『史記』より)

だから春秋時代の天子は実は結構ラクしてたんだ。洛陽だけの領地だから悩みも少ない。晋と楚と仲良くしてれば大丈夫。晋は姫姓の親戚だし、楚は孔子が「千乗の国を軽んじて一言を重んず」と褒めた礼儀正しい国(『史記・陳杞世家』)。少なくとも表向きは天子を敬って支えてくれた。

だから天子が晋楚の覇権と諸侯会盟の権利を認めてやれば、安全も保証され体面も維持できた。江戸時代の天皇みたいなもん。領地は小さく貧乏でも、幕府が支えてたから滅びる心配なし。表向きの格式は保てたわけ。

春秋時代主要支援勢力比較表

 

国名

支援内容

時期

効果

王子帯討伐・周携王討伐

前636年頃

王位安定・反乱勢力排除

陸渾の戎討伐

前606年

辺境防衛・異民族対策

河内領地提供

前635年

経済基盤強化

中原諸国への威圧

全春秋期

周への直接侵攻抑止


戦国時代に入ると状況が激変。晋が韓・魏・趙に分裂し、楚も江南経営と越征服に忙しくなって、周は後ろ盾を失っちゃう。

でも三晋分裂で韓が周王畿と接することになり、幸い韓も姫姓。晋ほどの忠誠心はないけど、たまに金や甲冑をゆすり取る代わりに、滅ぼす気はなかった。寧ろ利用価値があると思ってたみたい。

『戦国策』に面白い話が残ってる。周の雇った縦横家・蘇代が韓の宰相に「秦が近い高都を周に譲れば、秦は天子領を攻められないし韓も税収が得られる」と説得し、見事高都をゲットしたエピソードがある。

韓が東周に甲冑と食糧を要求した時、東周君が蘇代を呼ぶ。蘇代「心配御無用、要求を止めさせ高都も貰います」。韓宰相に「楚が雍氏を包囲して三月、まだ落とせないのは楚が弱った証拠」と言い、続けて「どうして周に高都をやらない?」と提案。宰相激怒「要求を控えてるだけでも十分なのに!」。蘇代「高都を周にやれば秦は怒って周と断交。結果的に韓の物になる」と説明し、見事成功した。(『戦国策』より)

だから戦国時代でも他国が周を攻める時は韓の意向を無視できなかった。韓がどんだけ弱くても戦国七雄の一員。最低限の保護はできたんだ。

戦国時代周辺情勢変化表

 

時期

事件

周領土面積

主要後援国

脅威国

前403年

三家分晋

約200km²

秦・魏

前375年

韓が鄭を滅ぼす

約180km²

楚・斉

前307年

秦武王が鼎を奪う

約150km²

なし

前256年

秦が東周を滅ぼす

0km²

なし


でも戦国末期に韓が衰退し秦が台頭すると終わり。秦は「虎狼の国」で天子なんか眼中になく、領土を蚕食。秦の武王が周王の前で鼎を持ち上げて威張り、弟の昭襄王が最後の領土を奪って東周を滅ぼした。表向きの格式も最早通用しない時代の流れだったわけさ。


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