西周はいかにして一ヶ月で商をあっさり滅ぼしたのか?
だってこの一ヶ月ってのはあくまで最後の軍事行動の過程に過ぎないんだよ。周の武王が即位して九年、孟津で観兵した時、「期せずして盟津に会した諸侯八百」。でも周武王は手を出さなかった。なぜか?城壁は内部から崩すものだから。当時の殷王朝はまだ強力で、仮に勝ったとしても周はズタボロの勝利に終わるだけだった。
だってこの一ヶ月ってのはあくまで最後の軍事行動の過程に過ぎないんだよ。
周の武王が即位して九年、孟津で観兵した時、「期せずして盟津に会した諸侯八百」。でも周武王は手を出さなかった。
なぜか?
城壁は内部から崩すものだから。当時の殷王朝はまだ強力で、仮に勝ったとしても周はズタボロの勝利に終わるだけだった。
その二年後、殷の紂王が王子の比干を殺し、箕子を投獄して内部分裂が進んだ。
そのタイミングでようやく周武王は軍隊を組織し、同盟を召集して牧野に進軍したんだ。
結果はどうだったか?
牧野の戦いでは「紂の軍は数こそ多けれど、戦う意思なく、武王の速やかな進撃を望み、紂軍は武器を捨てて武王を導いた。武王が突撃すると、紂の兵は皆反逆した」。
クラウゼヴィッツも言ってるだろ?政治闘争の目的は潜在的な敵を消すことで、戦争の直接目的は敵を殲滅すること。だからこの二つは連動して見なきゃいけない。
周武王が鉞で紂王の首を斬っただけで終わりか?
そんなわけない。
殷都を陥落させた後、紂の息子・武庚を殷の遺民統治に封じ、さらに商の王畿を邶・鄘・衛の三カ国に分割。弟の管叔・蔡叔・霍叔に分配して武庚を監視させた。完璧に見えたけど。
ところが武王が死ぬと武庚は三叔と結託して反乱。周公と召公が「内は父兄を鎮め、外は諸侯を慰撫」する三年がかりの平定劇でようやく安定したんだ。
大邑商ってやつは一ヶ月で滅びるほど甘くないんだよ。
【殷周交替関連データ表】
項目 |
内容 |
数値/期間 |
---|---|---|
孟津会盟諸侯数 |
周武王即位9年時に参集 |
800諸侯 |
牧野の戦い兵力比 |
周軍 vs 殷軍 |
4.5万 vs 17万※ |
三監の乱鎮圧期間 |
周公旦による平定作戦 |
前1042-前1040 |
殷遺民統治体制 |
武庚(紂王の子)+周王室三兄弟(管叔・蔡叔・霍叔)による三重監視体制 |
3カ国分割統治 |
殷都陥落後の処置 |
祭祀継続・貴族の登用・甲骨文記録の保存 |
文化継承政策 |
周王朝安定化期間 |
武王克殷から成康の治まで |
約40年 |
※『史記』周本紀による推定数値(実際の兵力比には諸説あり) |