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西晋時代の分封について語りましょう

ご存知の通り西晋は封建制を実施していました。晋の武帝司馬炎は建国時の泰始元年(266年)、咸寧3年(277年)、太康10年(289年)の3回にわたり大規模な分封を行っています。西晋分封の簡史を説明しましょう。泰始の分封は「論功行賞」が基本でした。司馬家の即位を助けた功臣への褒賞という側面もありますが、より重要なのは皇族の力を借りて盤石の体制を築き、万年の江山を守ろうとした点です。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

ご存知の通り西晋は封建制を実施していました。晋の武帝司馬炎は建国時の泰始元年(266年)、咸寧3年(277年)、太康10年(289年)の3回にわたり大規模な分封を行っています。

西晋分封の簡史を説明しましょう。泰始の分封は「論功行賞」が基本でした。司馬家の即位を助けた功臣への褒賞という側面もありますが、より重要なのは皇族の力を借りて盤石の体制を築き、万年の江山を守ろうとした点です。当時は東呉が未平定で戦乱が続いており、羊祜のような人気の高い将軍が各地で軍政を握っていました。こうした状況下で皇族を要所に配置し、地方軍閥の反乱を抑えるのが目的だったのです。

咸寧の分封は泰始の制度を「調整・補完」する性格が強くました。呉平定に向けた軍事再編が進む中、領地と駐屯地が離れている諸侯の不便を解消するため、扶風王司馬亮を汝南王に改封するなど、軍鎮と封地を一致させる改編が行われています。

太康10年の分封は司馬炎の死後を見据えた布石でした。外戚の楊駿と太子妃賈南風の台頭を危惧した武帝は、秦王司馬柬・楚王司馬瑋・淮南王司馬允ら三人の皇子を要衝に配置。しかし楚王瑋の軽率さが八王の乱の引き金となるなど、期待とは裏腹の結果を招くことになります。

分封の詳細を見ていきましょう。泰始の制度は司馬昭の五等爵制を刷新したもので、次のような特徴がありました:

【封爵制度比較表】

 

爵位

封地類型

封国規模

食邑戸数

兵力配置

郡王大國

大国

20,000戸

5,000兵

郡王次国

次国

10,000戸

3,000兵

郡公大国

大国

10,000+戸

1,500兵

郡侯大国

大国

10,000+戸

1,500兵

(※伯・子・男爵については封地を持たない場合もあり)


特に画期的だったのは諸王に実戦兵力を付与した点です。郡王大國では5千、小国でも1千五百の兵力を保持。当時の州郡兵が大郡100・小郡50という規模だったことを考えると、その軍事力の大きさがわかります。これは曹魏が宗室を弱体化させた反動から生まれた制度と言えるでしょう。

泰始元年の分封では27人の王が誕生しました。注目すべきは司馬懿の弟司馬孚が安平王(次国)に封じられながら4万戸という最大の食邑を得た点。その他、司馬昭の兄弟6人(平原王司馬幹・扶風王司馬亮ら)や司馬炎の実弟3人(特に斉王司馬攸)が要位を占めました。司馬孚の子孫だけでも7人の王が誕生し、宗室内での影響力の大きさが伺えます。

異姓諸侯では賈充・裴秀・荀勗ら実務派が郡公に封じられ、羊祜は南城郡侯として郡公級の待遇を受けました。前朝からの重臣鄭沖・王祥・何曾は県公に留められ、実権と格式のバランスが取られています。

咸寧3年の改封では、琅邪王司馬伷・汝南王司馬亮・扶風王司馬駿・趙王司馬倫らが要衝に再配置。太康元年の呉平定後は王濬・杜預ら功臣が県侯に封じられ、県単位の分封が増加します。

司馬炎の皇子分封では、秦王司馬柬(関中)・楚王司馬瑋(荊州)・淮南王司馬允(揚州)らが戦略要地を押さえました。成都王司馬穎に至っては10万戸という破格の食邑を与えられています。しかしこれらの分封が皮肉にも八王の乱の土壌となり、西晋滅亡を早める結果となったのです。

分封の影響を考えると、王夫之の指摘通り「疑うべき対象を誤った」ことが悲劇の根源でした。曹魏は宗室を疑って異姓に滅ぼされ、西晋は異姓を疑って宗室に滅ぼされるという歴史の皮肉。兵力と領土を兼ね備えた諸侯の存在は、初期こそ体制安定に寄与したものの、権力闘争が激化する中で制御不能な怪物と化していったのです。

【主要諸王兵力比較】

 

王号

封地

兵力

食邑

備考

安平王

次国

3,000

40,000戸

司馬孚(宗室長老)

平原王

大国

5,000

11,300戸

司馬幹(司馬昭弟)

斉王

大国

5,000

不明

司馬攸(皇太弟)

成都王

虚封?

不明

100,000戸

司馬穎(後継者候補)


この表からも、食邑と兵力が必ずしも比例していない複雑な実態が読み取れます。特に司馬孚の場合は政治的配慮から、司馬穎の場合は後継者争いを意識した特別待遇が見てとれます。

歴史が証明したように、西晋の分封制は精巧な制度設計ながら、人間の野心を制御できなかった点で致命的な欠陥を抱えていました。各地に分散した軍事力が中央統制を離れ、かえって王朝を瓦解させる要因となったのです。これは現代の組織論にも通じる「権限委譲とコントロールのバランス」という普遍的な課題を提示していると言えるでしょう。


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