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西周滅亡の根本的な原因は何ですか?

根本的な原因は——諸侯国が周天子に主権を要求したことにある。傅斯年の「大東小東説」によれば、西周建国時、最初に封じられた斉国は山東の斉国ではなく河南南陽西の呂国(呂望の呂)であった。魯国も山東の魯国ではなく河南魯山の魯国、燕国も北京の燕国ではなく河南郾城県の燕国だった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

根本的な原因は——諸侯国が周天子に主権を要求したことにある。傅斯年の「大東小東説」によれば、西周建国時、最初に封じられた斉国は山東の斉国ではなく河南南陽西の呂国(呂望の呂)であった。魯国も山東の魯国ではなく河南魯山の魯国、燕国も北京の燕国ではなく河南郾城県の燕国だった。これが周武王による初封である。しかし後に三監の乱を平定した後、周王朝はさらに東夷地域に進出し、これらの諸侯を夷人地域へ遠隔地に再封した。例えば山東の斉国は元々東夷の蒲姑国、魯国は奄国であり、周公旦と周成王によって平定された。ただし周初の夷人地域には依然として多数の夷人が居住しており、周王朝の統治は植民地的性格が強く、支配階級は華夏族、被支配層は東夷という構造を維持していた。当時はまだ夷夏東西の格局が残り、民族融合は未完成だった。

夏は水利技術、商は青銅技術、周は農耕技術で立国した。西周は三代の技術を集大成し、周辺の戎夷との技術格差を拡大させた。このため周初の東夷地域における封建諸侯の統治は、本店(周王室)が加盟店(諸侯)に技術と管理ノウハウを提供する形態を取った。西周はこの巨大な朝貢貿易ネットワークで王朝を維持しており、「親族を封建して周を屏藩とす」という制度自体、在地の土着貴族から国君や国卿の権力を剥奪するもので、抑圧的な要素が強かった。諸侯は城邦を支配下に置いたものの、広大な郊鄙地域の東夷人を完全に服従させることはできず、軍事・政治・文化・技術面で西周王朝の支援に依存していた。

西周後期になると、東部での夷夏融合がほぼ完成。諸侯国も単一城邦から複数都市を支配する広域国家へ成長し、実力が大幅に増強された。この時期、斉国のような大国は周王畿の実控領域を上回る規模に達し、地理的距離も遠いため、礼楽制度を遵守し続ける動機が薄れていた。

西周が覇権を維持するためには、朝貢貿易システムにおいて他国が依存する戦略資源を掌握する必要があった。現代で言えば、アメリカがドル基軸通貨体制を維持するために石油・食糧・武器・半導体などの重要資源を掌握するように、西周は馬匹と銅材を掌握した。馬は戦略兵器、銅は生産・兵器製造の重要資源である。「天子は六頭立ての馬車、諸侯は四頭立て」「天子は九鼎八簋、諸侯は七鼎六簋」などの周礼規定は、資源配分の秩序を象徴していた。

西北は天然の馬産地で、秦の祖・非子は周王室の牧官として出発した。西戎諸部との関係は戦いと懐柔の繰り返しで、良質な牧草地を掌握する必要があった。例えば周の穆王が西征し、共王が密須を滅ぼした背景には、西北地域の馬資源確保が関わっていた。

銅材は主に長江流域(湖北東南部・江西北部・安徽中部)で産出された。周は昭王が漢水で溺死するなど、銅資源確保のために淮夷・南夷を征討し、随棗回廊を開拓して漢陽諸姫を封建した。呉太伯の東遷も銅資源確保が動機だった可能性がある。

周王朝の衰退は、この二大資源の掌握力低下から始まる。懿王期に犬戎が王畿に侵入し、西北馬資源の掌握が揺らぐ。懿王の后・申姜(申国出身)との婚姻政策も、犬戎との関係悪化で破綻した。孝王は宗法制度を迂回して即位し、秦非子を登用して王室直営の牧場を整備。これにより犬戎への依存を脱却しようとした。

夷王期には姜姓の斉哀公を烹殺し、犬戎から千余頭の良馬を略奪するなど強硬策を実施。しかし諸侯の離反を招き、周王室の権威は低下した。厲王期には財政逼迫から国人への過酷な搾取が行われ、国人暴動で王が追放される事態に至る。この時期、王畿内では散国と夨国が領土争いを起こし、夨国が独自に王号を称するなど秩序崩壊が進行していた。

宣王期には一時的な中興を果たすも、晩年の千畝の戦い(犬戎に敗北)や南国軍の全滅で再び衰退。幽王期には三川(渭水・洛水・黄河)の枯渇という大災害が発生し、周王室の経済基盤が崩壊した。

幽王が申后を廃し褒姒を立てたことは、申国との決裂を意味した。申侯は犬戎と連合して王畿を攻撃し、幽王を驪山で戦死させた。この時、鄭桓公が戦死し、秦襄公は救援に遅れた。考古学的に豊鎬遺跡からは破壊痕跡が確認され、突然の襲撃を示している。

西周滅亡後、申国が擁立した平王と、虢国が擁立した携王の二王並立が20年続く。晋・鄭・秦が連合して携王を殺害し、平王を洛邑に遷都させることで東周が成立した。この過程で諸侯は周王室から事実上の主権を獲得し、城邦国家から領域国家へ脱皮した。

戦略資源掌握状況変遷表

 

時代

馬資源掌握状況

銅資源掌握状況

重要事件

西周初期

岐山周原に王室牧場、西戎から朝貢で獲得

湖北銅緑山・江西瑞昌など長江中流域を直轄

成王期に「金道錫行」確立

西周中期

孝王期に秦非子を登用、汧渭の会(宝鶏)に王室牧場拡大

昭王期の南征失敗後、漢陽諸姫(随・唐・蔡)による間接管理に移行

共王が密須国を滅ぼし涇水上流を掌握

西周晩期

夷王期に犬戎から1200頭略奪、宣王期に太原(固原)で大規模牧場建設

厲王期に淮夷が反乱、銅材供給が3年間停止

国人暴動で中央財政崩壊

東周初期

平王東遷後、秦が岐以西の牧場を掌握(周王室は洛陽近郊の偃師に小規模牧場のみ保持)

楚が随棗回廊を掌握、銅材流通路を遮断(周王室は晋を通じた間接調達に依存)

鄭庄公が周王室の銅材備蓄を接収


このように、西周の滅亡は単なる異民族侵入ではなく、諸侯が資源掌握と主権獲得を求めて周王室の分配システムから脱却しようとした歴史的転換点であった。城邦国家から領域国家へ成長した諸侯は、周礼の形式的権威は維持しつつ、実質的な国家主権を確立していく。このプロセスは、後の戦国時代に向けた中央集権化の胎動でもあった。


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