前219年の琅邪石刻にみられる「南尽北户」の四字をどう理解すべきか?
「北向戸」という言葉は『史記』に二度登場する。最初は始皇帝二十六年に天下を三十六郡に分割した際、秦の版図を「地東は海および朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河を塞とし、陰山を併せて遼東に至る」と記述している。二度目は始皇帝二十八年の東方巡幸時に琅邪台に刻まれた「六合の内、皇帝の土。西は流沙に渉り、南は北戸を尽くす。
「北向戸」という言葉は『史記』に二度登場する。最初は始皇帝二十六年に天下を三十六郡に分割した際、秦の版図を「地東は海および朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河を塞とし、陰山を併せて遼東に至る」と記述している。二度目は始皇帝二十八年の東方巡幸時に琅邪台に刻まれた「六合の内、皇帝の土。西は流沙に渉り、南は北戸を尽くす。東は東海有り、北は大夏を過ぐ。人跡の至る所、臣ならざるは無し」という石刻文である。
単独の証拠では立証できないが、この二つの記録から、秦の朝廷では「北向戸」地域を自国版図に含めていたことが分かる。問題の核心は「北向戸」が具体的な地名か象徴的な表現かという点にある。
「北向戸」は秦以前から存在した概念で、『呂氏春秋』や『尚書大伝』にも「北戸」の表現が見られる。赤道~北回帰線以南では春分後に太陽が北側から射すため、家屋の北側に窓を開ける習慣があったとされる。裴駰の『集解』では左思の『呉都賦』「開北戸以向日」を引用し、劉逵は「日南の北戸は、日北の南戸の如し」と注釈している。後漢の高誘も『淮南子』注解で「日が南にあるため、北向きの戸となる」と説明している。
現代中国の北回帰線以南では南向き窓が主流だが、古代中原の人々は嶺南地域の実情を直接知る機会が少なかった。山陰に建てられた家屋や通風を考慮した北向き建築が特殊事例として誇張され伝わった可能性がある。楚を通じた百越地域との交流で、北向き戸のイメージが形成されたと考えられる。
「北向戸」は実質的な嶺南地域(五嶺以南の百越)を指すと同時に、最南端を象徴する表現として機能した。『史記』始皇二十六年の記述は具体的地名を列挙する文脈であるため実質的指示と解すべきである。一方、琅邪台石刻では「流沙」「大夏」など伝説的地名と並び、『詩経』の「溥天之下、莫非王土」的な天下観を表現している。
南海・桂林・象郡の設置は始皇三十三年以降だが、『史記』が二十六年時点で「北向戸」を記録した矛盾について、譚其驤・史念海らは「後年の事実を前倒しに記述した」とする。しかし「北は河を塞とす」の記述(河套地域支配)が趙武霊王時代(前4世紀)に遡る可能性を考慮すれば、必ずしも年代錯誤とは言えない。秦の公式文書を忠実に転記した可能性が高い。
表1: 秦朝の主要出来事と関連地域
紀元前年 |
出来事 |
関連地域 |
出典 |
---|---|---|---|
221年 |
天下統一・三十六郡設置 |
北向戸(嶺南)を含む |
『史記』秦始皇本紀 |
219年 |
琅邪台石刻作成 |
北戸を最南端と宣言 |
同左 |
214年 |
南海・桂林・象郡設置 |
実質的嶺南支配開始 |
『史記』南越列伝 |
215年 |
蒙恬による河套地域奪還 |
陰山~遼東の防衛線整備 |
『史記』蒙恬列伝 |
「北向戸」は地理的実体(百越地域)と象徴的表現(最南端)の二重性を有する。秦朝廷は楚を滅ぼした時点で百越の従属を既成事実化し、実際の軍事支配(前214年)に先立つ政治的宣言として用いた。司馬遷の記述は秦公式文書を踏襲したもので、古代中国の「主権宣言」と「実効支配」の差異を反映している。この二重構造こそが、古代中華思想の「天下観」を理解する鍵となる。