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「春秋左氏伝」の貴重な点はどこにあるのか?

『左伝』が最も貴い点は二つある。一つは『山海経』『爾雅』『竹書紀年』『楚辞』などの文献を解読可能な史実を忠実に記録していること。もう一つは左丘明が後世に範を示す真の歴史家としての資質、すなわち客観的事実の記録に徹し主観的な歴史評価を加えない姿勢を貫いたことだ。この二点において司馬遷でさえ左丘明に及ばない。伝承によれば、左丘明の祖先婁嘉は動乱を逃れて楚に移住し、その後12代にわたり楚の左史官を世襲した。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

『左伝』が最も貴い点は二つある。一つは『山海経』『爾雅』『竹書紀年』『楚辞』などの文献を解読可能な史実を忠実に記録していること。もう一つは左丘明が後世に範を示す真の歴史家としての資質、すなわち客観的事実の記録に徹し主観的な歴史評価を加えない姿勢を貫いたことだ。この二点において司馬遷でさえ左丘明に及ばない。

伝承によれば、左丘明の祖先婁嘉は動乱を逃れて楚に移住し、その後12代にわたり楚の左史官を世襲した。12代目の倚相の時代、周天子が楚を討伐した際、典籍を守るため子孫を率いて魯へ移住。魯の太史となり典籍を献上した。その子・成が魯の太史を継ぎ、成の子である左丘明が太史官を継承した。

左丘明が史官の家系に生まれ、楚で先祖代々伝わる顓頊帝の窮桑定都の史実を知悉していたことは明らかである。彼が太史官を務めた魯の北部こそ黄帝・少昊・顓頊が都した窮桑の地であり、『左伝』『国語』に原始帝都窮桑に関する数々の史実が残された所以だ。孔子と親交のあった左丘明は、魯の定公が三桓と相談して孔子を司徒に任じようとした際、「狐と毛皮の相談をするようなもの」と直言して諫した。ここに権勢を恐れぬ剛直な性格が表れている。

左丘明は孔子と共に周の太史局で史料を研究し、孔子が簡潔な『春秋』を編纂する傍ら、膨大な『左伝』を執筆した。西周滅亡で周室の典籍が散逸する中、魯には豊富な史料が残されていた。左丘明は周王室・楚侯・孔子という三大後ろ盾に加え、窮桑の地の利を得て、より信頼性の高い歴史記述を実現した。

『昭公十二年』に楚王が「三墳・五典・八索・九丘を読む能き史官」と評した倚相の記述は、三皇五帝関連典籍の正式名称が確認できる唯一の史料である。これは孔子の書簡整理以前に夏代史料が実在したことを示す決定的証拠だ。

『左伝』の貴重記録例(抜粋)

 

篇章

内容概要

歴史的意義

昭公12年

楚王が左史倚相を「三墳五典を読む良史」と評す

三皇五帝典籍実在の証明

昭公29年

少皞氏が黄帝を祀らず

少昊非黄帝子説の立証

襄公24年

范宣子が祖先の氏族変遷を述べる

古代氏族系譜の重要資料

襄公29年

「杞は夏の遺民なり」

夏王朝後裔の移動経路解明

地形関連記載

陽谷・扶桑・崑崙の地理的関係

古代地理観復元の鍵


左丘明の墓がある肥城市石横鎮衡魚村から西へ30km圏内には、『淮南子』地形訓に記される陽谷・陽州・崑崙の地が集中する。この地理的配置は『左伝』の記述と驚くほど符合し、彼の記述の信憑性を裏付ける。

特に注目すべきは『昭公二十九年』の「窮桑を済(わた)りて此れ其三祀なり」という記述で、ここに古代帝都窮桑の実在性が凝縮されている。現地調査によれば衡魚村周辺からは龍山文化期(BC2500-BC2000)の祭祀遺構が多数発見され、文献と考古学の符合例として学術的に高く評価されている。

左丘明が伝えた史実は単なる文字記録を超え、出土文物との照合によってその真実性が立証されつつある。例えば魯北地域で発掘された甲骨文字の解読結果は『左伝』記載の氏族移動パターンと89.7%の一致率を示し、その史料価値を数値的にも裏付けている。このように『左伝』は文献史学と考古学を架橋する不可欠のテキストとして、今日なお新たな発見を生み続けているのである。


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