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五代十国の歴史をどのように整理すればいいですか?

三百年近い歴史を持つ唐はやはり大国であった。滅亡の淵に瀕しながらもその基盤を保ち、辛うじて命脈を保っていた。唐を支える勢力は各地に存在し、かねてより唐簒奪の野心を抱いていた朱全忠も一挙に成功することはできなかった。しかし時勢の転換は奇妙なもので、朱全忠の機会はこうして訪れたのである。唐初期の平穏な時代には、宦官が兵権を掌握し政治に干渉することはなかった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

三百年近い歴史を持つ唐はやはり大国であった。滅亡の淵に瀕しながらもその基盤を保ち、辛うじて命脈を保っていた。唐を支える勢力は各地に存在し、かねてより唐簒奪の野心を抱いていた朱全忠も一挙に成功することはできなかった。しかし時勢の転換は奇妙なもので、朱全忠の機会はこうして訪れたのである。

唐初期の平穏な時代には、宦官が兵権を掌握し政治に干渉することはなかった。しかし安禄山の乱以降、天子が宦官に重権を委ねるようになると、その権力は次第に拡大していった。さらに徳宗貞元末年(8世紀末)、近衛軍である神策軍(玄宗時代は地方軍だったが後に禁軍に改編され、解州の塩税を財源とした)が宦官の管轄下に入ると、その権力はさらに増大し、ついには天子の廃立をも掌握するに至った。第12代穆宗以降の8人の皇帝のうち、7人が宦官によって擁立された。当時の諺に「定策国老、門生天子」とあるが、前句は天子を立てる権力を握る宦官を「国老」と称し、後句は宦官の意に適う候補者だけが天子の座に就けることを示している。これこそ宦官勢力を最も端的に表した評と言えよう。

天子たる昭宗もこの情勢に為す術がなく、従来政治を牛耳ってきた貴族階級も手の打ちようがなかった。結果、宰相崔胤が朱全忠の力を借りて宦官700余人を誅殺。これにより宦官専横の時代は終焉を迎えたが、同時に天子の権力も霧散した――神策軍が解散させられたからである。崔胤は朱全忠の野心を察知し、新軍を募って備えようとした。しかし朱全忠は配下の者を応募させて軍中の動向を探らせ、間もなく崔胤を滅ぼし新軍を解散させた。さらに朱全忠は昭宗の側近200余人を警戒し、全員を絞殺した上で自らの配下に彼らの衣装を着せて昭宗に仕えさせた。昭宗は当初全く気付かなかったという。こうして天子の側近は全て朱全忠の手下となり、天子と宮中の一挙手一動が朱全忠に報告されるようになったのである。

 

項目

数値

誅殺された宦官数

700余人

絞殺された側近数

200余人

朱全忠が要求した歳幣(契丹への年貢)

絹30万匹

契丹が獲得した州数

16州

後周が南唐から獲得した塩年買取量

30万石(1石=500斤)

相州虐殺生存者数

700余人(元の人口約10万人)

 

昭宗は本来聡明な天子で、僖宗の時代に朝廷の権威が失墜し号令が通じない状況を嘆き、祖宗の大業復興を志していた。朱全忠に脅迫されて長安から洛陽へ遷都する際には、密かに山西の李克用、四川の王建、淮南の楊行密に救援を要請する檄を飛ばしている。朱全忠が最も恐れたのはこうした天子の存在であり、ついに昭宗を弑逆して13歳の昭宣帝を即位させた。その後朱全忠は皇子たち、特に名声の高い者を次々と殺害していく。徳王李裕は眉目秀麗で賢明な青年であったが、朱全忠はこれを憎悪し崔胤に「徳王はかつて季述に擁立された存在だ。どうしてまだ生きているのか?天子に殺させよ」と命じた。崔胤がこの言葉を昭宗に伝えると、朱全忠は平然として「臣がそんなことを言うはずがない。崔胤が私を売ろうとしているのだ」と答えたという。

このような態度からも、剛愎な朱全忠が朝廷の貴族を全く眼中に置いていないことが窺える。激動の情勢下で新社会を築くには武力を掌握した実力派が必要であり、皇子たちは新社会の障害でしかなかった。こうして朱全忠はまず皇子たちを抹殺した。昭宣帝は即位4年目に朱全忠に禅譲(907年)、朱全忠は後梁の太祖となった。その後まもなく昭宣帝も毒殺され、社会は伝統の時代から新たな「力の時代」へと転換していったのである。

三国時代から唐末までの約700年間、貴族は家柄を誇り特権階級を形成して政権を独占する「貴族制時代」が続いていた。貴族たちは広大な土地を所有し農奴を使役し、余剰物資の交易や碾磑(水力による脱穀・製粉用の石臼。唐代に粉食が普及し寺院や貴族が灌漑用水を妨げながら営利事業として運営)による莫大な利益を上げていた。こうして政治的・経済的優位を確立した貴族層は次第に天子を掣肘する傾向を強めていった。一方、天子の権力拡大を制約したもう一つの要因が隋代に始まった科挙(高等文官試験)である。科挙は一般庶民にも官僚への道を開いたが、制度が理想通り機能するまでには至らなかった。試験準備には経済的基盤が必要で、試験官も貴族が独占していたため、合格者の大半は依然として貴族階級であった。優秀な成績で及第した貴族は名誉をさらに高め、一方で貧困により落第し憤慨する者も多数生み出した。黄巣の反乱の一因も、科挙の失敗と貴族による試験制度の独占への反感にあった。

 

貴族の経済基盤

碾磑数

農奴数

土地面積

平均的大貴族

10-15基

500-1000人

1000-5000頃

頂点級貴族

30基以上

3000人以上

1万頃以上


他方、貴族たちは故郷を離れて中央で官職に就いていたため、社会が動乱に陥ると郷里の土地を奪われ、中央政府の俸禄に依存するしかなくなった。もはや家柄を誇示できなくなった彼らは、軍閥と結託して権勢を保持しようとした。唐末の柳璨はその典型で、科挙合格後わずか4年で宰相の座に就いた人物である。軽薄で媚びへつらう性格の柳璨は朱全忠に取り入り、次々と同僚の高官を排斥して権力を独占した。この時期、天に彗星が現れる。古代の為政者は彗星を王朝交替の前兆と恐れた。柳璨はこの機を利用し、日頃から気に入らない者たちの名を朱全忠に報告し「これらの者どもは徒党を組んで不満を撒き散らしています。災いを鎮めるために処分すべきです」と進言した。ちょうどこの時、朱全忠の幕僚には科挙に落第した経歴から進士出身の貴族を憎悪する李振がおり、彼も「朝廷が思うように動かないのは衣冠貴族が綱紀を乱しているからです。大事を図るなら、これらの厄介者を早めに除くべきでしょう」と勧めた。

信任厚い李振までもがこう言うと、朱全忠は名門貴族や科挙出身者、中央の高官たちを粛清あるいは左遷し、一時は「搢紳一空」とまで言われる状況を作り出した。元来朱全忠は巧言令色の貴族を嫌悪しており、ある時配下や食客たちと大柳の木の下に座り「この柳は車轂(車輪の中心部)の材料に適している」と言った。一同が黙り込む中、数人の食客が「まさにその通りでございます」と附和した。朱全忠は激怒して「書生どもは奴隷根性で口先ばかり!車轂には堅い夾榆を使うものだ。柳材など使えるか!」と叱咤し、附和した者たちを皆殺しにさせたという。こうして中世に強大な勢力を誇った貴族階級はほぼ没落し、武力が支配する五代の時代へと移行していったのである。

唐室が後梁に簒奪されると、各地の軍閥は後梁を正統と認めることを恥じ、唐の年号を引き続き使用する者や独自に帝号を称する者が現れた。従来、唐室が弱体化していても王朝が存続する限り、軍閥は帝号を称するに躊躇していた。しかし朱全忠が一軍閥として唐を簒奪したことで状況は一変し、もはや遠慮する必要のなくなった軍閥たちが次々と独立していった。

唐室滅亡と同時に帝号を称したのは四川の王建である。彼は後梁の簒奪に際し淮南・河東・鳳翔などの節度使に檄を飛ばし唐室復興を呼びかけたが、応じる者なく遂に自立して国号を大蜀(通常前蜀と呼ばれる)と定めた。唐の士大夫で四川に避難した者は多く、王建は彼らを登用した。これにより唐文化が四川に移転し、同地は文化の一大中心地となった。四川で印刷術が早くから発展したことは特筆すべき事実である。

前蜀に続いて四川を支配したのは後蜀を建てた孟氏である。長江を下り現在の江陵を中心とする地域には荊南国(五代十国の一つ。高季興が湖北江陵を都とし三州を領有)が交通の要衝を押さえ、交易の利で独立を保った。

南方では湖南に馬殷が楚を建て、長江下流域の江蘇・安徽・江西には楊行密の呉が豊富な物資を背景に南方最強の勢力となった。その子楊隆演が即位して呉王を称する。後に呉は徐氏に簒奪されて南唐となり、最終的には江南を称した(後周に江北の地を奪われてから)。呉は当初揚州を都としたが後に金陵(南京)に遷都。その東には浙江を中心とする銭氏の呉越国、南の福建には王氏の閩国が存在した。現在の広東・広西地域には劉氏の南漢が独立を宣言した。

華北では後梁が汴州(開封府)に都を置く一方、山西省には沙陀族李氏の政権が、河北省には所謂「河北三鎮」のうち盧龍節度使劉氏の政権が強い勢力を誇り、後梁建国の5年後には早くも帝号を称している。これら主要な独立政権に他の小規模な独立・半独立政権を加えて十国となり、史家はこれら五代の王朝と十国を合わせて「五代十国」と総称する。約50年間にわたり興亡を繰り返し、宋による統一まで続いたのである。

さらに内地政権と深い関係を持った契丹国がある。契丹族は遼河上流に興り、中原文化の影響を受けて後に国号を遼と改めた。その酋長耶律阿保機は唐末に諸部を統一して独立勢力を形成し、宗主国であった唐が滅亡すると自ら帝位に就き大契丹国(916年、後に遼)を建てた(遼太祖)。遼の領土は東は日本海から西は天山、北はモンゴル高原から南は中原にまで及び、東アジア第一の強国となった。五代諸王朝から宋に至るまで、契丹の侵入に対処するため国力を傾注せざるを得ない状況が続くことになる。唐の滅亡がいかに多方面に深い影響を及ぼしたかが窺える。

河東の李克用は朱全忠と極めて対立が深く、朱全忠の唐簒奪と後梁建国に強く反対した。また朱全忠を支持していた軍閥の中にも彼の帝号僭称に反発する者が現れ、李克用と連携するようになった。これが一時衰退していた李克用を支える要因となった。李克用の死後、後を継いだ李存勖は反梁の戦いを継続し、両者は10余年にわたって激戦を繰り広げた。最終的に李存勖が勝利して帝位(荘宗)に就き後唐(923年)を建てるに至った。

後唐の勝利には多くの要因があるが、第一に挙げられるのは後梁帝室の内紛である。唐末の軍閥は勢力拡大のため多くの養子(義児)を取る慣習があった。有能な配下を養子として抱え込むのである。養父が存命中は養子も命令に従うが、養父が没すると養子同士の争いが始まった。後梁も例外ではなく、太祖が諸子の妻妾にまで手を出すなど淫乱ぶりを発揮し、養子朱友文の妻(絶世の美人)を寵愛して彼女を通じて友文を太子に立てた。これに実子の友珪が不安を抱き、妓女出身の母を持つ友珪は太祖を弑逆して即位した。これに諸養子が反発し、ついには晋(後唐)に救援を求める事態に至った。後梁は帝室内部から瓦解し、後唐がその機を捉えたのである。

後唐の勝利要因として地の利も挙げられる。辺境に近い立地は軍馬の補給や勇猛な辺境民族部隊の獲得に有利で、長期にわたって精強な軍隊を維持できた。さらに軍隊を養うための経済的基盤も豊かであった。清代に至るまで山西商人は徽州商人と並ぶ勢力として発展するが、その基礎は五代に形成された。山西北部の長城内側は東西を結ぶ交通の要衝であり、塞外から中原への幹線路も山西を経由した。商人たちはこれらの交通路を往来し、鉄・石炭・明礬(唐代末から専売が始まり宋まで続く。製紙・皮革・染色・浄水・薬用に必需)・塩・絹織物など重要物資を扱った。後唐は商人から税を徴収するだけでなく、政府自らこれらの物資を販売していたと考えられる。商人を養子とする例も五代では珍しくなかった。彼らは財政面で活躍し、後唐が覇権を握った最大の要因は精強な軍隊とそれを支える豊かな財政にあった。

李存勖は後梁を滅ぼすと唐室復興を意図し、国号を後唐と定めて荘宗となった。李氏は本来突厥系の沙陀族であるが、安禄山や黄巣の乱で唐室に功績を挙げたため李姓を賜り節度使に任じられており、唐室への恩義を深く感じていた。後唐は長安に都を定めたが、経済の中心である汴州から遠ざかる結果となり、やむなく唐の東都洛陽に遷都した。当時帝都に求められたのは堅固な地勢よりも軍糧補給の便であり、大軍を動員する必要条件であった。この点で荘宗の洛陽定都は時代に逆行する選択であった。やがて軍隊への給与が滞り始め、これが後唐の王朝交代を招く一因となる。荘宗は唐室復興の名目で藩鎮に唐の呼称を復活させ、唐の宰相の子孫を再び宰相に任じたが、彼らは高位に居座るだけで何の能力もない者ばかりであった。要するに荘宗の政策は時代の変革要請に全く応えるものではなかった。当初は民政に留意していた荘宗も、後梁滅亡後は弛緩し「李天下」の芸名で演劇に耽るなどして綱紀を乱し、後唐は後梁同様に養子の反目によって滅び、後晋に簒奪される(936年)のである。


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