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戦国時代の秦はほとんど暗君を出さなかったのに、なぜ163年・6代かけて統一を成し遂げたのか?

「赳赳たる老秦、我が山河を回復せよ」…これこそが秦にとって最も致命的な問題だった、あまりにも古すぎたのだ!秦が建国から天下統一までに要した時間は?周の平王を護衛して東遷し、西周の故地で諸侯として開国した秦の襄公(紀元前770年)から、始皇帝による統一(紀元前221年)まで、実に549年を要した。

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「赳赳たる老秦、我が山河を回復せよ」…これこそが秦にとって最も致命的な問題だった、あまりにも古すぎたのだ!

秦が建国から天下統一までに要した時間は?

周の平王を護衛して東遷し、西周の故地で諸侯として開国した秦の襄公(紀元前770年)から、始皇帝による統一(紀元前221年)まで、実に549年を要した。

歴代王朝の中でも、建国から天下統一までの道のりが最も困難で長かったのは秦王朝と言えるだろう。

始皇帝嬴政は六代にわたる蓄積を引き継ぎ、天下の半分を領有する秦王国を受け継いだ。13歳で王位を継承し、22歳で親政を開始、39歳で六国を平定して皇帝を称するまで26年を費やし、統一戦争だけで10年を要した。

一方、嬴政と同時代でわずか3歳年下の漢の高祖劉邦は、白蛇を斬って挙兵してから漢皇帝となるまで7年、異姓諸侯を平定して真の天下統一を成し遂げるまで合計14年を要した。

漢の光武帝劉秀は挙兵から洛陽入りして皇帝を称するまでわずか3年、その後12年で群雄を平定し合計15年で大業を達成。

晋の武帝司馬炎は祖父司馬懿が政変で曹魏を掌握してから、父司馬昭による蜀漢滅亡(天下の3/4獲得)を経て、自ら魏に代わって帝位に就くまで16年、さらに東呉を滅ぼすまで15年、合計31年。

隋の文帝楊堅は北周の権臣から禅譲を受けて9ヶ月で天下の3/4を掌握し、南陳を滅ぼし嶺南を平定するまで合計10年。

唐の高祖李淵は太原挙兵から降伏勧告を繰り返し、4ヶ月で長安を制圧、半年後に帝位に就き関隴集団を掌握して瞬く間に半壁を手中に収め、7年で基本統一。太宗李世民が即位後2年目に朔方を平定、合計10年で完成。

宋の太祖趙匡胤は後周から継承した河南・河北・関中・両淮を基盤に南方諸国を17年で平定。弟の太宗趙光義が2年で呉越と漳泉を降伏させ北漢を滅ぼし、兄弟合計19年で燕雲地域を除く基本統一を達成。

元の世祖フビライはモンゴル大汗を称して北中国を割拠してから南宋を滅ぼすまで19年。祖父チンギス・ハーンの西夏・金攻撃から数えると73年を要した。

明の太祖朱元璋は金陵占領から呉国公称し西呉政権を樹立するまで12年、さらに雲南平定まで16年、遼東奪還まで6年、合計34年で完全統一。

清王朝はヌルハチの挙兵(後金国大汗称す)からホンタイジの大清皇帝即位まで20年、北京攻略に8年、南明平定に18年、合計46年。

根本原因は、斉・楚・燕・趙・魏・韓という関東六国が、単なる軍閥政権ではなく数百年の歴史を持ち独自の統治エリート集団と国家意識を育んだ真の「諸侯国」だった点にある。戦国七雄は近代国家のような総力戦を展開し、人口の10%超を動員して数十万の兵力を投入できた。後世の一戦で崩壊する軍閥政権とは次元が異なる。

秦がこのような国家を併合・消化するには極めて長い時間が必要だった。核心は秦の建国が古すぎ、数百年に及ぶ既得権益集団の複雑な利害関係にあった。商鞅の変法(紀元前359年)から始皇帝の統一戦争開始(紀元前231年)まで128年、孝公・恵文王・武王・昭襄王・孝文王・荘襄王・始皇帝と7代を経ている。

これは始皇帝が天下統一を志した時、秦朝廷の利権が既得権益集団で埋め尽くされていたことを意味する。商鞅の法は富国強兵策だが、軍功授爵制という根本的欠陥を抱えていた。天下統一後は戦争特需が消滅し、既得権益層の利権が脅かされる構造だった。

長平の戦い後の秦は天下の半分を領有したが、趙・魏・楚が相次いで「復興」を見せたのは、秦朝廷が意図的に「敵を生かしておく」戦略を取っていたからだ。趙孝成王の北方進出、魏安釐王の中原制圧、楚考烈王の北伐成功はいずれも秦の「水やり」あっての現象だった。

秦が東周を滅ぼした後、諸侯が相次いで朝貢する「準天下共主」となった段階で、六国存続の状態が秦の既得権益層(一般兵卒・庶民含む)の利益に適っていた。真の天下統一を目指す嬴政個人の野望だけが突出していたのである。

始皇帝の能力は「六世の余烈」の陰で過小評価されがちだが、500年の古参国家を動員して天下統一を成し遂げた点で、草創期のエネルギーに満ちた新興王朝よりもはるかに困難な事業だった。統一後は旧六国民も平等な秦人として扱われ、戦争特権が消滅した結果、老秦人ですら嬴政死後3年で楚将劉邦に心を寄せた。

もし始皇帝のような傑物がいなければ、腐敗した六国と秦は陳勝・劉邦・韓信ら新興勢力に一掃されていたかもしれない。しかし「書同文・車同軌」なき分裂状態が続けば、欧州のように永続的分裂が定着した可能性もあった。ローマ帝国でさえ秦昭襄王レベルの覇権に留まった事実がこれを物語る。

500年の古木が最後に咲かせた統一の花は、まさに歴史的奇跡だった。老朽化した国家機構を最後の輝きで昇華させた始皇帝の偉業は、まさに「逆転の歴史劇」と言えるだろう。

【主要王朝統一所要年数比較表】

 

王朝

開始年

終了年

所要年数

紀元前770年

紀元前221年

549年

漢(劉邦)

紀元前209年

紀元前195年

14年

後漢(劉秀)

22年

36年

15年

249年

280年

31年

581年

589年

10年

617年

628年

10年

960年

979年

19年

1206年

1279年

73年

1356年

1387年

34年

1616年

1662年

46年


【戦国後期秦の戦略的展開年表】
 

年号

事件

備考

紀元前359年

商鞅の変法開始

孝公時代

紀元前260年

長平の戦い

白起が趙軍45万を殲滅

紀元前256年

西周滅亡

九鼎遷座

紀元前247年

嬴政即位

13歳で秦王に

紀元前230年

韓滅亡

統一戦争開始

紀元前221年

斉滅亡・天下統一

咸陽にて皇帝を称す


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