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中国古代における「隠戸(いんこ)」の数は4000万人に達する可能性はありますか?

実際に可能性はあるんです。唐王朝、特に中晩唐期の戸籍統計の変動は極めて大きく、戸籍調査の仕組みが未熟だったため、数年で人口が倍増したり半減したりする現象が発生していました。ここでは中晩唐期の史料を全て列挙する代わりに、いくつかの事例を挙げて説明しましょう。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

実際に可能性はあるんです。唐王朝、特に中晩唐期の戸籍統計の変動は極めて大きく、戸籍調査の仕組みが未熟だったため、数年で人口が倍増したり半減したりする現象が発生していました。ここでは中晩唐期の史料を全て列挙する代わりに、いくつかの事例を挙げて説明しましょう。

唐王朝人口統計表

 

時期

戸数

口数

出典

備考

玄宗期

9,619,254

52,880,488

『旧唐書』巻九

課戸5,301,044

元和15年

2,375,400

15,760,000

『旧唐書』巻十六

97州が未報告

長慶年間

3,350,000

-

『旧唐書』巻十七

兵員99万(3戸で1兵士)

会昌末

4,955,151

-

『新唐書』巻五十二

武宗期の急増


北朝人口対照表
 

王朝

時期

戸数

口数

出典

北斉

崇国3年

3,032,528

20,006,880

『周書』

北周

大象年間

3,590,000

9,009,604

『隋書』

大業5年

8,907,536

46,019,956

『隋書』


『旧唐書巻九玄宗下』にはこう記されています:「今年の管轄州県戸数は、郡321、県1538、郷16829。戸961万9254(課戸530万1044、不課戸388万6504)、口5288万488(課口766万2800、不課口4521万8480)」。ところが『旧唐書巻十六穆宗紀』元和15年の記録では戸237万5400、口1576万と激減し、さらに97州が報告を提出していません。

長慶年間(『旧唐書巻十七文宗紀下』)では戸335万に回復しますが、兵員99万を抱え「3戸で1兵士を養う」状態。武宗期(『新唐書巻五十二食貨二』)になると戸数が211万4960から会昌末年には495万5151へと倍増。この急増を説明する要因として、まず統計方法の改善による隠戸の摘発、次に両税法下で刺史が税収増を目的に戸数を水増し報告していた事実が挙げられます。杜牧が黄州刺史時代に前任者が3万戸に500人分の税を上乗せしていた事例(『祭城隍神祈雨文』)や、元和6年の詔勅(『唐会要巻八十四』)で「戸数増加を功績とするため虚偽報告が横行」と指摘されている状況がこれを裏付けます。

隠れた要因として、藩鎮割拠下で河朔三鎮が戸籍を報告せず、流動人口が激増していた点も見逃せません。刺史が一時的な流民を「浮客」として登録する手口が横行し、実際には中央政府が掌握できない人口が多数存在していました。安史の乱(8年間)から徳宗期の削藩失敗まで続いた戦乱(劉展の乱・吐蕃侵入・四王二帝の乱等)が生産活動を停滞させ、人口増加率を抑制したことも考慮する必要があります。天宝13年と比べて4000万人減少した背景には、戦乱による1000万人以上の直接的な犠牲に加え、2000-3000万人規模の隠戸が存在した可能性が浮かび上がります。

北斉滅亡時(303万戸2000万人)と北周大象年間(359万戸900万人)の人口差に学術的議論が集中しています。1000万人以上が「消失」した理由について、(1)北周旧領のみの統計説、(2)隠戸化説などが提唱されていますが、隋大業5年(890万戸4600万人)への急増は、短期間でこれほどの自然増は不可能なため、北周時代の隠戸が顕在化したと解釈するのが妥当でしょう。

このように、統計制度の未熟さに加え、行政の不正、戦乱の影響、隠戸問題などが複合的に作用し、古代中国の人口動態は単純な数値では測れない複雑な様相を呈していたのです。武宗期の戸数倍増が示すように、制度変更一つで統計数値が劇的に変化する現象は、当時の社会構造を考える上で重要な手がかりと言えるでしょう。


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