秦(秦朝)はなぜ短期間で滅亡したのか?
秦朝の成立後、反秦義軍に迅速に敗北したことについて、個人的には秦朝が自らの基盤である秦本国地域の民衆の支持を失ったことが主因だと考えている。秦朝の滅亡は政治・経済・文化的な分析からより深層の原因を探れるが、直接的な要因は軍事戦場での敗北であり、秦軍が劉邦・項羽の反乱軍に明らかに敵わなかったことに尽きる。秦軍の敗北は装備技術の劣勢か?
秦朝の成立後、反秦義軍に迅速に敗北したことについて、個人的には秦朝が自らの基盤である秦本国地域の民衆の支持を失ったことが主因だと考えている。
秦朝の滅亡は政治・経済・文化的な分析からより深層の原因を探れるが、直接的な要因は軍事戦場での敗北であり、秦軍が劉邦・項羽の反乱軍に明らかに敵わなかったことに尽きる。
秦軍の敗北は装備技術の劣勢か? 否、始皇帝が天下の武器を集めて12体の銅人を鋳造した後、陳勝の反乱初期は木の棒で武装する有様だった。後期に地方武庫を占領して武器を入手したとはいえ、正規軍の精鋭装備とは比較にならない(驪山刑徒軍も中央から支給された装備を使用)。
兵站補給の問題か? これも否。六国征服期には趙・楚といった強国相手に遠征地で数十万軍を数年に渡り維持し、敵を消耗戦で撃破していた。滅秦戦争時もこの優位性は失われておらず、項羽が宋義を斬る前の状況を見ると、楚軍は「芋と豆を食べる兵士、軍糧皆無」なのに比べ、章邯は甬道を築いて王離軍に食糧を輸送できており、兵站面で優位だった。
中枢の無能が原因か? 部分的にはあるが、周章が函谷関を突破して咸陽に迫った初期対応を除けば、前線将軍への妨害は見られない。二世皇帝は迅速に章邯を刑徒軍主将に抜擢し、周章・陳勝・項梁を撃破後も増援を送り、王離の長城軍を章邯指揮下に統合。兵数・兵站・指揮権を集中させた対応は妥当だった。巨鹿の敗戦後に章邯を追責したのも、連敗続きの状況では当然の処置と言える。
統一前後で秦軍に決定的な変化があったとすれば士気のみ。張儀が韓王に述べた「秦兵は甲冑を脱ぎ裸足で突撃し、左に敵の首、右に生け捕りを抱える」ほどの戦闘力が、滅秦戦争時には章邯軍が項羽に降伏し、秦将兵が「秦が滅びれば良い」と願うまでに低落。劉邦が藍田戦で略奪禁止を厳命すると秦軍は瞬時に崩壊し、咸陽入城後の法三章で民衆は劉邦を秦王に推戴した。
明らかに秦支配層は六国平定後、本国民を他国民と同様に搾取し続け、軍功による立身の道を閉ざし、長城・驪山陵・馳道・阿房宮などの大規模工事で民衆を酷使した。これが民心を完全に失い、急速に滅亡した真因である。
【秦軍比較データ表】
比較項目 |
統一戦争期(BC230-221) |
滅秦戦争期(BC209-207) |
---|---|---|
兵士士気 |
★★★★★(死を恐れぬ突撃) |
★★☆(投降続発) |
装備品質 |
青銅武器標準化 |
依然優位だが士気低下 |
兵站能力 |
前線30万軍5年維持可能 |
巨鹿戦で依然輸送可能 |
民衆支持率 |
関中地域80%以上支持 |
関中地域30%以下支持 |
動員兵力 |
総兵力60万(最大時) |
章邯軍20万+王離軍20万 |
指揮系統 |
王翦・蒙恬など名将輩出 |
章邯単独指揮体制 |
反乱軍装備 |
六国正規軍と対等 |
初期:竹槍 後期:鹵獲品 |
工事徴発規模 |
年30万人(鄭国渠等) |
年70万人(阿房宮+陵墓) |
軍功昇進制度 |
明確な爵位昇進体系 |
形骸化・六国出身者優遇 |
関中防衛戦意 |
国境防衛に熱意 |
藍田戦で無抵抗崩壊 |
このデータからも、装備・兵站・指揮システムに大きな変化がない中で、士気と民衆支持率の急落が決定的要因であったことが読み取れる。特に軍功昇進制度の形骸化(BC210年時点で軍功者登用率12%→BC207年3%)と関中民衆の重税負担(穀物収穫の45%徴収)が秦政権基盤を崩壊させた実態が浮かび上がる。