周朝になぜ周公という呼称があるのか?
ネット上には「周」は地名であり、姬旦の封地が周地だったから周公と呼ばれたとする説が多く見られます。この一見もっともらしい説は実は根拠薄弱です。私が調べた限り、この説の出典は唐代の司馬貞が『史記魯周公世家』に付した注釈「周は地名、岐山の陽にあり、もと太王の居住地であったが、後に周公の采邑となり、故に周公と称す」に遡ります。
ネット上には「周」は地名であり、姬旦の封地が周地だったから周公と呼ばれたとする説が多く見られます。この一見もっともらしい説は実は根拠薄弱です。私が調べた限り、この説の出典は唐代の司馬貞が『史記魯周公世家』に付した注釈「周は地名、岐山の陽にあり、もと太王の居住地であったが、後に周公の采邑となり、故に周公と称す」に遡ります。司馬貞がこの説を唱えた時点で、周公旦から既に2000年が経過していました。現代の私たちが知乎で「劉玄德は本当に草鞋を売っていたのか」と議論するのと同様、一次史料ではなく信憑性に欠けます。
先秦文献から判断すると、「周」はあくまで族号・国号であり、地名ではなかったと考えます。根拠は以下の通りです:
1. 周公封地の地名は「岐」であって「周」ではない
『詩経』に「古公亶父、来朝走馬、率西水滸、至於岐下」とある通り、当地の地名は岐であり周ではありません。仮に「周公」の称号が地名に由来するとすれば、姬旦を岐に封じて岐公と称すべきであり、周公とする道理がありません。
2. 先秦文献における「周」は主に族名・国号として使用される
周原甲骨に文王が商の先君に奉じた卜辞があり、文王自ら「周方伯」と称しています。これは商王から与えられた封号です。『詩経』に「周雖舊邦,其命維新」、『尚書』で周公旦が「反鄙我周邦」「天休于寧王,興我小邦周」と述べているのは全て武王・成王の周王朝を指し、特定の封地を指すものではありません。『国語』「檿弧箕服,実亡周国」で滅ぼされるのも西周王朝であり、司馬貞の想定した周公封国ではありません。
3. 「周」の地理的概念は固定的地域ではなく王都所在地を指す
古公亶父が岐に都を築き、文王が豊京、武王が鎬京(宗周)を、周公が洛邑(成周)を造営しました。孔子が「周に礼を問う」時の周は成周、『左伝』「楚子洛に至り周疆に兵を観る」の周も成周を指します。殷が十数回遷都しながらも「大邑商」と称したのと同様、周王室の都所在地が「周」と呼ばれました。成王が洛邑を「周匹休」と表現したのも、新都が旧都鎬京(当時の周都)と対等であるべきという意味で、特定封地との関係はありません。
都城名 |
建造者 |
時期 |
別称 |
現在地 |
---|---|---|---|---|
岐 |
古公亶父 |
商代末期 |
周原 |
陝西省岐山県 |
豊京 |
文王 |
前11世紀 |
宗周 |
陝西省西安市 |
鎬京 |
武王 |
前1046年 |
宗周 |
陝西省西安市 |
洛邑 |
周公 |
前1039年 |
成周 |
河南省洛陽市 |
「周」が国号である以上、周が天下を取る前の君主の正式称号は周公(または周原甲骨の「周方伯」)であったはずです。『詩経』が開祖を「古公亶父」と称し、「周太王」「周文王」が姬発の王号追封後に使われ始めたのもこの理に適います。
諸侯が王を称する際は従来の国号を継承するのが通例(商、秦、漢など)ですが、周王朝では「周王」とは別に「周公」という封号が存在します。本来なら姬発自身が周公を称すべきところ、弟の姬旦にこの称号を譲ったと推測されます。ただし、姬旦の周公号が姬発からの封授であったとする明確な史料はなく、次男が周公号を世襲した事実も特異です。
以下の疑問点が浮上します:
-
姬発が最高位の称号を弟に譲った理由
-
周公封地の実態(関中畿内の采邑)
-
周公・召公が独立諸侯でなく王室重臣として存続した経緯
仮説として、姬発が幼少の成王に備え、姬旦に摂政の権限と「周公」の称号を与え、周故都岐山を采邑とした可能性があります。召公の設置もこの権力均衡策の一環でしょう。小臣単觯銘文「周公錫小臣単貝十朋」は、周公が摂政時に既にこの称号を使用していたことを示し、この仮説を裏付けます。
周公号の栄誉は摂政という特殊事情があって初めて成立し得るもので、小臣単觯が成王親政前の作である点も整合します。周召両家が強大な諸侯ではなく王室直属の卿として存続した点も、この体制設計の巧妙さを物語っています。