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なぜ楚の国では公族の反乱が多かったのか

そう、楚国って西周の初めに建国された時はたった半径50里(約25km)の子爵国だったんだぜ。先祖の祭祀すら隣国から牛を盗まないとできない貧乏くじ国家だったのに、春秋戦国時代になるとガッチリ成長して「春秋五霸」「戦国七雄」の座をゲット。晋や秦とガチで張り合うまでになったんだからスゴイよね。でも楚王が何度も中央集権を試みたけど、国内の宗族勢力が強すぎて逆にボロ負けしちゃって、結局周王室みたいに滅びるパターンにハマっちゃったんだ。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

そう、楚国って西周の初めに建国された時はたった半径50里(約25km)の子爵国だったんだぜ。先祖の祭祀すら隣国から牛を盗まないとできない貧乏くじ国家だったのに、春秋戦国時代になるとガッチリ成長して「春秋五霸」「戦国七雄」の座をゲット。晋や秦とガチで張り合うまでになったんだからスゴイよね。でも楚王が何度も中央集権を試みたけど、国内の宗族勢力が強すぎて逆にボロ負けしちゃって、結局周王室みたいに滅びるパターンにハマっちゃったんだ。

【初期勢力比較表】

 

時期

領土規模

爵位

軍事力

宗族数

西周初期

半径50里

子爵

単一

春秋中期

半径500里

王号自称

4大氏族

戦国末期

全域支配

王国

最強級

3大氏族


最初の国家ってみんな血縁関係の部族から発展したもんで、楚国も例外じゃなかった。羋姓(びせい)の分家が首都から地方までビッシリ陣取ってた。周王室が弱体化すると、諸侯がパワーゲームを始めて、その中で大夫たちが実権を握るようになった。春秋時代には斗氏・成氏・屈氏・蒍氏(いし)の四大宗族が朝廷を牛耳り、戦国になると屈氏・景氏・昭氏の三羽烏に交代。これが楚国滅亡まで続くパターンになったんだ。

斗氏と成氏は楚若敖(じゃくおう)熊儀の子孫で、まとめて若敖氏って呼ばれてた。若敖は楚武王の祖父だから、楚国が王を名乗り始めた時から王族のおじさんたちが政治を握ってたわけ。楚武王から荘王の時代まで、斗伯比とか斗穀於菟(とこくおと)とか成得臣とか超大物を排出して、王子以外で令尹(宰相)になったのは蒍敖(いごう)だけって記録が残ってる。要するに令尹ポストは斗・成の独占状態で、楚王は飾り物同然だったってことさ。

【若敖氏主要人物活躍時期】

 

人物名

活躍期間

最高職位

主な功績

斗伯比

前8世紀後半

令尹

漢水流域開発

斗穀於菟

前664 - 前637年

令尹

城濮の戦い指揮

成得臣

前637 - 前632年

令尹

晋との対決路線推進

成大心

前632 - 前627年

令尹

若敖氏勢力維持


蒍氏は楚霄敖(しょうごう)の息子で楚武王の弟・蒍章(いしょう)の子孫。領地の蒍(い)で氏を名乗ったんだ。屈氏は楚武王の息子・熊瑕(ゆうか)の流れで、莫敖(ばくごう)という役職から莫敖氏とも呼ばれた。楚荘王が即位した時、わざと遊び呆けて数年間ジッとしてたのは、斗氏・成氏の力が強すぎて反撃を恐れたから。そこで蒍氏と屈氏を引き込んで若敖氏を叩き潰す作戦に出たんだ。

前605年、荘王在位9年目に若敖氏を滅ぼし、蒍氏の孫叔敖(そんしゅくごう)を春秋時代きっての名宰相に抜擢。荘王の息子・共王の代になると王子たちを大量登用して、令尹や司馬(軍事長官)を王族で埋め尽くした。これで一応蒍氏・屈氏が補佐する形になったけど、今度は嫡流と庶流の争いが勃発。王叔(王のおじさん)たちの専横がエスカレートして、楚国は内部分裂で滅亡寸前まで追い込まれるハメに。

共王が子供で即位した時、子重(しじゅう)・子反(しはん)ら王叔たちが暴走。共王が死ぬと「五公子の争い」が始まって、康王の時代には子囊(しのう)・子南(しなん)・子庚(しこう)の三人の王叔に操られる傀儡状態。その息子の郟敖(こうごう)は王叔の子囲(しえい)に殺され、子囲が霊王として即位。ところが霊王の太子・熊禄(ゆうろく)と弟たちはまた別の王叔三人組に殺害され、霊王自身も自殺する始末。その後を継いだ初王子比(しょおうしひ)・令尹子晰(しせき)・司馬棄疾(きしつ)の三兄弟が争い、最終的に棄疾が勝って平王になったけど、この兄弟ゲンカで楚国の体力はガタ落ちした。

平王が息子の嫁を横取りした事件をきっかけに、太子建(けん)と白公勝(はくこうしょう)親子が逃亡。前506年の柏挙の戦いで、太子建の先生だった伍奢(ごしゃ)の息子・伍子胥(ごししょ)が呉軍を率いて楚の首都・郢(えい)を陥落させる。昭王は随(ずい)に逃げ込む羽目になり、申包胥(しんほうしょ)が秦軍を引っ張ってきて何とか復国。恵王の時代には王叔の子西(しせい)・子期(しき)・公子閭(こうしりょ)が実権を握るも、前479年に白公勝が三人の王叔を殺害して恵王を監禁。自ら楚王を名乗ったけど、荘王の曾孫・葉公沈諸梁(しょうこうしんしょりょう)が乱を鎮圧。これ以降、楚国の混乱は衰えを見せ始める。

平王・昭王・恵王の三代にわたる政変で、平王の子孫である景氏と昭王の子孫である昭氏が台頭。従来の四大宗族(斗・成・蒍・屈)のうち前三者が没落し、景・昭の新興勢力が屈氏と組んで楚国を牛耳るようになった。戦国時代に入ると、代々の楚王が屈・景・昭の三氏族を抑えようとするけど失敗続き。悼王が呉起を起用した改革も宗族の反発で頓挫し、屈原(くつげん)・景翠(けいすい)・昭陽(しょうよう)ら宗族出身者の権力がますます肥大化。大家族がバラバラに政治を動かす状態だから、中央集権ができずに魏斉秦にボコられまくったんだ。

【戦国七雄国力比較(前350年頃)】

 

国名

兵力

領土面積

経済力

中央集権度

40万

50万km²

最強

★★★★★

35万

80万km²

★★☆

30万

30万km²

最強

★★★★☆

25万

25万km²

★★★☆

20万

35万km²

★★★

15万

20万km²

★★

10万

10万km²

★★☆


前278年の鄢郢(えんえい)の戦いで白起が楚の新旧首都を蹂躙。頃襄王が陳(ちん)に遷都すると、景氏・屈氏の領地が秦に奪われ勢力減退。前241年、考烈王が三大宗族の支配圏から脱出するため春申君・黄歇(こうけつ)の領地・寿春(じゅしゅん)に遷都。春申君や李園(りえん)ら他姓の実力者が宗族に取って代わり、ついに楚王室は有名無実化する。末期には春申君が自分の隠し子を幽王として即位させるまで暴走。項燕(こうえん)ら他姓武将が実権を握る中、秦に仕えていた楚宗族の昌平君(しょうへいくん)が反乱を起こして最後の楚王となるも、前223年に秦軍が広陵を陥落させて完全滅亡。

春秋戦国を通じた楚の権力構造を見ると、中原諸国より常にワンテンポ遅れてた感が強い。これは周の制度をマネまくったせいかも。斉や晋が他姓の大夫を登用してた春秋時代に楚は四大宗族で固め、戦国で各国が中央集権する時も三氏族に縛られてた。王権強化が遅すぎた結果、最後の20年は他姓の権力者に乗っ取られる始末。これじゃ滅びるのも当然ってかんじだね!


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