「山を見て山と見る、山を見て山でないと見る、山を見てやはり山と見る」という三つの境地をどう理解するか
山を見て山と思うのは、我々凡人が修行に入る前の状態だ。感覚と概念の中で生きてるってこと。例えば昼に大根を食うとする。大根って植物の根っこだろ?親や先生から「この白い根っこは大根だ」と教わって、丸い形を見て、切ったら白くて、辛味を感じる。その後も似たような丸くて白くて辛いもん見たら全部大根って呼ぶ。これが認知システムと現実世界の接続ってやつさ。
山を見て山と思うのは、我々凡人が修行に入る前の状態だ。感覚と概念の中で生きてるってこと。例えば昼に大根を食うとする。大根って植物の根っこだろ?親や先生から「この白い根っこは大根だ」と教わって、丸い形を見て、切ったら白くて、辛味を感じる。その後も似たような丸くて白くて辛いもん見たら全部大根って呼ぶ。これが認知システムと現実世界の接続ってやつさ。
認知段階 |
特徴 |
具体例 |
処理速度(msec) |
脳活動領域 |
---|---|---|---|---|
看山是山 |
直感的認識 |
大根の形状判断 |
120-150 |
一次視覚野 |
看山不是山 |
分析的認識 |
農薬残留の懸念 |
300-500 |
前頭前野 |
看山还是山 |
超越的認識 |
無分別の状態 |
N/A |
全脳同期 |
山を見て山と思わなくなるのは、ちょっと修行が入ってきた証拠だ。目の前に大根を置くと、視覚的にイメージが形成される。これが「見る能力」だ。こっちの「見る機能」と「大根がある」って事実が合体する。認知システムが起動して分別が生まれる。「これは大根だ」と分かる。つまり後天的なシステムが外部情報を処理してるってこと。そしたら妄想が湧くんだ——「大根の美味しい調理法」「どこの産地だろ」「農薬大丈夫か?」とか。これ全部炎みたいに揺らめく妄想で、気血を消耗させる。でも本人は気付かない。
今度はこれを全部捨てて、内省モードに入る。後天的な認識システムを停止させる。ここで疑問が爆発する——「処理してるこの正体は何?主人と奴隷の区別は?後天的に作られたものなら、元々の俺はどこにいる?」見て分別するのは結果だ。全てが生まれる前の根源を探る。後天的な構築物から次々撤退していく。層を剥がすように断ち切って、最後にパッと突破する。考えるのをやめ、処理を止める。妄想も生まれない。真っ白で大地すらない。清浄さすら超越した空虚な広がり。目も体もそのまんま、感覚情報を全部保留。山は山じゃなく、大根は大根じゃない。
この状態だと、呼ばれても返事せず、食べてても何食ってるか分からん。昔の公案で言う「一日中飯食うも一粒も食わず」だ。
凡人も「一粒も食わず」状態にはなるが——飯食いながらテレビ見る、寝ながら雑談する。これが最も散漫な状態。一日中心乱れて、何したか分からず、手に傷付けてもどこでやったか覚えてない。だから和尚が「修行は食事と睡眠」と言うんだ。まず心を一箇所に集中させ、食事は食事に、睡眠は睡眠に戻す。行為そのものを浄化しないと、次の段階に進めない。
撤退は理解だけじゃダメ、身体で実践せんと。虎を滑り蹴りで倒すとか妄想してたら意味ない。本当に撤退できれば能所が消え、自性が見える。これが道教で言う「識神退き元神現る」。後天から先天に戻り、自分が主人になる。
自分が主人になるって、特定の境地に留まることじゃない。慧能が言った通り「この座禅は元々心に執着せず、清浄にも執着せず、動かぬものでもない」。妄想を消して真心を見つけた気になるが、真心もまた心。元々脱落してるものを探す必要ない。清浄無妄の境地に安住しようとするのは、まだ執着が残ってる証拠だ。心を動かさないのは腐った水溜りと同じ。
「一日中飯食うも一粒も食わず」は水が死んでる状態。再び流れ始めさせなきゃ。能所があるのは構わん。今誰が主人か分かってれば、システムが動くのを見守れる。妄想が起きても「あ、動いたな」と分かる。引き戻せばいい。山を見て山と思うのは、こっちが「山でいいよ」と許可してるから。「違う」と言えばすぐ断ち切れる。虚雲和尚が「閻魔様でも俺を支配できん」と言った理由——自分が主人になったからだ。
主人になれば余裕ができる。その余裕で何するか?後天的システムが忙しく働くのを眺めてる。忙しいのは自分じゃない。休んでるから「今やっと休む所を得て、前と同じく山を見ればやはり山」なんだ。
山は重要じゃない。肝心なのは入り口を見つけ、休む所を得ること。こんな状態なら、静止してれば死人のよう、動けば機械のよう。他人から見たら阿呆か木鶏みたいだが、実は何にも捉われず自在に生きてる。