周朝が名目上800年間続いた理由は何か?
周の「朝」と秦制を導入した後世の王朝は本質的に異なります。周は「封建制」、秦は「専制制」でした。前者は高度に分権化されており、各地の方国はほぼ完全な自治権を持ち、名目上のみ中央の国に従属していました。周代には、真の「滅国」行為は稀でした。
周の「朝」と秦制を導入した後世の王朝は本質的に異なります。周は「封建制」、秦は「専制制」でした。前者は高度に分権化されており、各地の方国はほぼ完全な自治権を持ち、名目上のみ中央の国に従属していました。
周代には、真の「滅国」行為は稀でした。一国を攻め落とした後も、その子孫や他の者を立てて土地を治めさせ、君主は替わっても国は存続しました。最も良い例が商を滅ぼした後も紂王の子を立て、反乱後も微子を宋として商の祭祀を継承させたことです。宋は商であり、商は宋だったのです。
なぜそうなったか?根本的な理由は当時の生産力・文化蓄積・社会組織が広大な領域を直接統治する能力を支えられなかったことにあります。中央と地方の関係は名目上の従属関係に留まりました。直接統治が不可能なため、矛盾が生じれば征伐で解決するしかなく、軍事行動のコストを避けるためには一定の距離を保つしかありませんでした。このため、「諸侯朝せず」が上古の「中央王朝」の勢力を測る基準語となったのです。
「諸侯朝せず」の状態では、「朝」は形骸化します。国か朝かを決めるのは諸侯であって天子ではありません。
いわゆる「周朝」800年続いたという説は、実は「周国」が800年続いたということであり、晩商甲骨文に「周方」が存在した事実を考慮すれば、周国は1000年以上存続したことになります!
真の「周朝」は西周期の約277年間(前1046-前770)のみです。清華簡『系年』に記されている通り:
周幽王、西申より妻を娶り……幽王及び伯盤滅び、周乃ち亡ぶ……晋文侯仇乃ち虢にて恵王を殺す。周亡王九年、邦君諸侯焉くんぞ周に朝せざるを始め、晋文侯乃ち少鄂にて平王を迎え、京師に立てる。三年にして東遷し、成周に止まる……
ここでは幽王の死を以て「周乃亡」と明記され、さらに「諸侯焉始不朝于周」とあるように、諸侯の承認こそが「朝」の権威維持の鍵だったことが分かります。
では平王東遷後の東周は何だったのか?春秋時代までは諸侯は一定の敬意を保ち、三家分晋も周王の形式的承認を得ており、楚を除き諸侯は王を称せず、表面的には周の五等爵制を維持していました。
比較例として、唐中期の安史の乱後の中央と節度使の関係、日本の幕府時代の天皇・将軍・大名の関係が挙げられます。東周天子の実態はその中間で、実効支配範囲は晩唐の皇帝に及ばないものの、儀礼的存在だった日本天皇よりは強力でした。
従って東周を歴代中央王朝と同列視すべきではなく、「名存実亡」の状態で、「東周時代」と呼ぶのが適切です。西周と合わせ「周代」と称するのは、単に歴史時期を指すに過ぎません。
比較項目 |
西周 |
東周 |
秦以降 |
---|---|---|---|
存続期間 |
前1046-前770(277年) |
前770-前256(514年) |
前221- |
統治形態 |
封建制 |
名目上封建制 |
中央集権制 |
天子権力 |
実質的盟主 |
象徴的存在 |
絶対君主 |
諸侯関係 |
朝貢義務あり |
形式的尊重のみ |
完全従属 |
滅国件数 |
年平均0.03件 |
年平均0.12件 |
年平均0.45件 |
では東周がなぜ500年以上存続できたのか?秦制成熟前の1500年間(二里頭文化前1750年~秦前221年)、滅国は稀でした。春秋戦国期の東周が東西二周に分裂し一城のみを保った状況でも、強国は滅ぼす必要性を感じず、楚が陳・蔡を滅ぼした際も実際の統治は旧王族が継続しました。郡県制が成熟した秦代になって初めて東周は滅亡したのです。
つまり周の800年(あるいは1000年)存続は、中国の「封建時代」から中央集権時代への長い変遷過程を反映しており、東周諸侯の権謀術数や保王・倒王運動とは無関係な歴史の必然だったと言えます。