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殷王朝は600年も統治したのに、なぜ歴史はほとんど空白なのか?

司馬遷が『殷本紀』を書いた時、すでに史料はかなり不足していた。そのため、比較的信頼できる商王朝の君主の系譜は残されているものの、600年の歴史の中で詳しい内容はほとんど残されていない。大部分が以下のような状況である:中宗が崩御し、子の中丁が帝位に就いた。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

司馬遷が『殷本紀』を書いた時、すでに史料はかなり不足していた。そのため、比較的信頼できる商王朝の君主の系譜は残されているものの、600年の歴史の中で詳しい内容はほとんど残されていない。大部分が以下のような状況である:

中宗が崩御し、子の中丁が帝位に就いた。中丁は隞に遷都した。河亶甲は相に居住した。祖乙は邢に遷都した。中丁が崩御すると、弟の外壬が即位し、帝外壬となった。仲丁に関する記録は欠落している。外壬が崩御すると、弟の河亶甲が即位し、帝河亶甲となった。河亶甲の時代、殷は再び衰退した。

では、商王朝の600年間に、丹念に記録された大量の史料は存在したのか。答えは肯定的である。殷商の時代には成熟した文字が存在しただけでなく(甲骨文は単なる「象形文字」ではない。コメント欄の某氏はまずこの点を理解してから反論すべきである)、歴史を記録し文書を保存する意識もあった。『尚書・多士』にはこうある:

「惟殷先人、有冊有典」

『説文解字』では:「典、五帝之書也。从册在丌上、尊閣之也。庄都説、典、大冊也」

ここでの「五帝之書」の説は『左伝』の「三墳五典」に由来する。五帝に『典』が存在したかはさておき、『多士』の成立年代は殷商に近く、殷商に典冊が存在したことは疑いない。

これらの冊や典は竹簡や木簡に書かれており、甲骨文に刻まれた断片的な卜辞よりもはるかに重要な歴史的意義を持つ。甲骨文があまりにも有名なため、商王朝の文字がすべて甲骨に刻まれていたと誤解する者がいるが、これは大きな誤解である。商王朝の人々が卜辞以外に文字記録を残さなかったわけではない(この点についてコメント欄で疑問を呈する者がいるので、機会があれば甲骨文と金文を合わせて詳説したい)。

商代の竹木簡牘が未だ出土していないことを根拠に「商王朝は竹木簡牘を使用しなかった」と断じるのは別の誤解である。西周の竹簡も未出土だが、西周が竹簡を使用しなかったとは言えない。『盤庚』や『大誥』のような歴史文献の媒体が甲骨や青銅器でなかったことは明らかで、典冊に記録されていたはずである(『盤庚』の年代については諸説あるが、商代の原文を大きく逸脱していないという説が有力。仮に将来『盤庚』が後世の創作と判明しても、「有典有冊」の記述を否定する根拠にはならない)。

西周の創始者たちは間違いなく商代の歴史文献を精読し、その経験を自王朝の政治に活用した。『尚書・無逸』では周公が成王を諭す際、殷の先王の事跡を多く引用している:

「昔在殷王中宗、厳恭寅畏天命、自度治民、治民祗惧、敢荒寧弗。肆中宗之享国七十有五年。其在高宗、時旧労于外、爰暨小人。作其即位、乃或亮陰、三年不言。其惟不言、言乃雍。敢荒寧弗、嘉靖殷邦。至于小大、無時或怨。肆高宗之享国五十有九年。其在祖甲、不義惟王、旧為小人。作其即位、爰知小人之依、能保恵于庶民、敢侮鰥寡弗。肆祖甲之享国三十有三年...」

周公が語るこれらの詳細な殷先王の事跡は、甲骨卜辞から得られるものではなく、意図的に記録された史料に基づく(「叙事詩」や「歌謡」による記録説は西洋のモデルを機械的に適用した誤り。商周にはギリシャ的な長編叙事詩は存在せず、『生民』『緜』『公劉』『商頌』などの短詩では不十分である)。また「口承伝説」は文字未成熟の唐虞時代には適用可能でも、文字が成熟した商代には当てはまらない。

では、これらの商代史料はどこへ消えたのか。主に二つの行方が考えられる:

 

  • 戦利品として鎬京に運ばれ、周公らが参考資料とした「戦利品史料」

  • 武庚統治下の殷遺民が保持した「武庚史料」


武庚の乱(紀元前1043年頃)平定後、残存史料は宋国に継承された。しかし周文化への同化が進み、宋国では次第に殷商文化が廃れた。『左伝』僖公19年(紀元前641年)の記録によると、宋の襄公が人牲を使用しようとした際、公子目夷が「民は神の主なり」と諫めたことは、殷商の伝統から大きく乖離していたことを示す。
 

項目

数値

出典

中宗在位年数

75年

尚書・無逸

高宗在位年数

59年

同上

祖甲在位年数

33年

同上

宋国存続期間

前11世紀-前286年

史記

武庚の乱発生年

前1043年頃

竹書紀年


春秋末期、孔子は「殷の礼について語ることはできるが、宋では証拠が足りない」(『論語』)と嘆いた。これは史料の散逸を物語る。史料消滅の要因としては:(1)武庚の乱での破壊 (2)竹簡の物理的劣化 (3)宋人の周文化受容が挙げられる。

一方、「戦利品史料」は西周の動乱(特に紀元前771年の犬戎侵入)で失われた。当時の史料保存は副本作成がなく戦乱に脆弱で、鎬京陥落で多くの文献が失われた。『漢書・芸文志』が伝える「左史記言、右史記事」の制度も、実際の編年体史書成立は春秋時代以降と見られる。

司馬遷が参照できたのは『世本』『尚書』断片や諸子百家の逸話に限られ、現代の殷商史研究は甲骨文(1899年発見)に大きく依存する。しかし甲骨文は卜辞が主で、全体像把握には限界がある。ある上古史専門家の言うように、殷商史研究は「パズルを解くような想像力が不可欠」なのである。


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