張居正を客観的にどう評価すべきか
張居正が亡くなると、万暦帝は即座に家宅捜索を命じた。張家の家族は空き部屋に閉じ込められ、飲食を厳しく禁じられた。半月後、扉が開かれた時には十数人が餓死していた。捜査官たちは「掘れ!金を探せ!」と叫んだ。徹底的な捜索と地面掘り起こしの末、わずか黄金1万余両、白銀10万余両が見つかっただけだった。
張居正が亡くなると、万暦帝は即座に家宅捜索を命じた。張家の家族は空き部屋に閉じ込められ、飲食を厳しく禁じられた。半月後、扉が開かれた時には十数人が餓死していた。捜査官たちは「掘れ!金を探せ!」と叫んだ。
徹底的な捜索と地面掘り起こしの末、わずか黄金1万余両、白銀10万余両が見つかっただけだった。これは万暦帝の期待値の10分の1に過ぎず、「残りの金はどこへ消えた?」と詰問が始まった。
「打て!」の号令と共に、張居正の嫡男・張敬修は黒頭巾を被せられ、容赦ない拷問を受けて血肉模糊となった。生き残った家族も隔離され、次々と拷問にかけられ「隠し財産」の所在を追及された。
耐えきれなくなった張敬修は隙を見て首を吊った。憂国の臣下が「国民なき君主」に仕える結末――これが張居正一族の末路だった。
生前の張居正は先見の明に優れ、このような悲劇を予測していたのか?答えは「イエス」である。官界の力学と人間心理を見抜いていた彼は、引退した元首輔・徐階にこう書き送っていた:「この9年間、首が飛ばぬかと戦々恐々。どうか田舎に帰らせて下さい」。河漕按院・林之源への手紙でも「天下に多くの敵を作った。奸臣どもが虎視眈々と狙っている」と危惧を綴っていた。
ではなぜ退路を準備しなかったのか?その複雑な人物像に迫る。
張居正は聖人と悪魔を併せ持つ矛盾の塊だった。清廉潔白で公正な面もあれば、独裁的で奢侈三昧の面も。上司(3代の皇帝)も友人も敵も、彼に翻弄され続けた。
2歳で文字を覚え、5歳で学問を始め、10歳で六経をマスターした神童。13歳で郷試受験を阻まれたのは、湖広巡撫・顧璘が「早すぎる成功は毒になる」と判断したためだった。3年後、16歳で見事合格。その後6年間は青春を謳歌し、22歳で進士に合格した。
庶吉士として官界入りした張居正は、夏言と厳嵩の首輔争いを冷静に分析。嘉靖帝が臣下を操る帝王術を見抜き、派閥争いに関わらない生存戦略を確立した。徐階に師事しながらも厳嵩と交流を保つ柔軟さ。「霊雨を賀す表」など巧みな阿諛追従文で皇帝の目を引いた。
沈鍊や楊継盛が厳嵩弾劾で処刑された事件を機に、30歳で官職を辞して3年間の放浪へ。民間の貧困と豪族の奢侈を目の当たりにし「田賦不均、貧民失業」と改革の志を固めた。
1557年、覚悟を決めて官界復帰。徐階派として着実に地盤を固め、吏部左侍郎兼東閣大学士に就任。嘉靖帝崩御後は遺詔起草で冤罪者救済に尽力し、権力の可能性を実感した。
高拱との確執が頂点に達したのは隆慶帝急逝時。10歳の万暦帝を「どうやって治めるのか」と漏らした高拱の発言を、馮保が「謀反の疑い」と太后に奏上。張居正の暗躍もあり高拱は失脚、張居正が首輔の座に就いた。
ここから始まる「万暦新政」は苛烈を極めた。考成法による官僚淘汰(9年間で1300人以上更迭)、全国的な土地測量、一条鞭法の実施で税制改革を断行。宮廷経費削減で万暦帝の逆鱗にも触れた。
成果は絶大で、万暦6年(32万両の赤字)から同12年(2年分の国庫余剰)へ劇的改善。しかし既得権益を奪われた地主層や官僚の恨みを買い、万暦帝の不満も蓄積させた。
改革項目 実施前 実施後
官僚数削減 |
冗官多数 |
1300人以上更迭 |
土地登録面積 |
不明 |
全国測量完了 |
税収(白銀) |
32万両赤字 |
2年分の余剰 |
食糧備蓄 |
不足 |
7年分を確保 |
宮廷経費 |
奢侈三昧 |
半減以下に削減 |
矛盾に満ちた改革者の素顔:32人用の豪華轎子で帰省する派手好き、父の死に目に会わず政務を続ける非情さ、後継者育成を怠った専制ぶり。万暦帝の報復で死後廃止された改革も多かったが、その急逝が明王朝衰退を加速させた事実は動かない。
魯迅が評した「欠点ある戦士」の真骨頂――清濁併せ呑む改革者の生涯は、現代の組織論にも通じる教訓に満ちている。権力闘争の渦中で理想を追い続けた男の光と影が、400年の時を超えて問いかけてくる。