『送東陽馬生序』が少し見せかけっぽく感じるのですが、私の考え方が偏っているのでしょうか?
今日再び『送東陽馬生序』を読んで、泣きそうになるほど切なくなった。幼少期の貧しさや努力不足への後悔ではなく、若い頃この文章の真価を全く理解できていなかったことへの痛恨が胸を突く。田舎の学生にとって、厳冬の烈風や手足の凍傷、衣食不足は苦労ではあるが、最も困難なのは学習方法や処世術を知らないことだ。
今日再び『送東陽馬生序』を読んで、泣きそうになるほど切なくなった。幼少期の貧しさや努力不足への後悔ではなく、若い頃この文章の真価を全く理解できていなかったことへの痛恨が胸を突く。
田舎の学生にとって、厳冬の烈風や手足の凍傷、衣食不足は苦労ではあるが、最も困難なのは学習方法や処世術を知らないことだ。
宋濂は蔵書家から本を借りて写本するという「条件なき環境を自ら作る」知恵を持っていた。師匠に叱責されても礼節を崩さず、機嫌の良い時を待って再質問するという柔軟性を備えていた。しかし貧家の子弟は往々にして単純な思考と狭い視野から、教師の叱責を前に萎縮し質問すらできなくなる。
私自身の経験を振り返れば、中学三年時の物理教師に黒板で回路図を間違えた際「こんな簡単な問題も解けないのか」と冷笑され、その後一度も指名されなかった。当時宋濂の教えを知っていれば「もう一度頑張りますから見捨てないでください」と訴えられたかもしれない。「物事に絶対的価値はなく、人の見識で上下が決まる」という真実を、貧しい環境の子供たちは最初の一歩で見失ってしまう。
宋濂(1310-1381)は字を景濂、号を潜溪。貧農出身ながら神童と呼ばれ、一週間で四書経伝を暗誦した。元朝の招聘を断り仙华山で隠遁生活を送るが、明朝建国後は朱元璋に招かれ太子傅となり、『元史』編纂や科挙制度整備などで「開国文臣之首」と称された。しかし洪武十年(1377年)の隠退後、胡惟庸事件に連座して子孫を処刑され、自身も流刑地への途上で72年の生涯を閉じた。
表:宋濂の生涯に関する詳細データ
西暦 |
年齢 |
出来事 |
---|---|---|
1310年 |
0歳 |
浙江省浦江県で誕生 |
1327年 |
17歳 |
仙华山にて隠遁生活開始 |
1349年 |
39歳 |
元朝から翰林院編修に推薦されるも拒否 |
1360年 |
50歳 |
朱元璋の招聘を受けて太子傅に就任 |
1369年 |
59歳 |
『元史』総編集者として完成させる |
1377年 |
67歳 |
隠退して故郷に帰郷 |
1380年 |
70歳 |
胡惟庸事件に連座して四川茂州へ流刑 |
1381年 |
71歳 |
流刑途中で病死(享年72) |
弟子の方孝孺が評するに「公の度量は天下を包み込めるほど広大だったが、天下は公の一身を容れられなかった」。その才能は劉基(伯温)から「当代第一」と称賛され、高啓・劉基と並んで「明初詩文三大家」とされる。『送東陽馬生序』は隠退翌年(1378年)、同郷の後輩馬君則を激励するために記した自伝的エッセイである。
文中で宋濂は少年期の苦学を回想する。厳冬期に硯の氷を溶かしながら写本し、百里を徒歩で師匠を訪ね、豪華な身なりの同輩たちに囲まれながらも「心の充足」によって物質的貧しさを克服した経験を赤裸々に綴る。驚くべきは「老いても未だ成すところ無し」と謙遜しつつ、現代の学生が優れた環境で学べることを祝福する姿勢だ。
特に注目すべきは「太学生の環境」に関する分析だ。朝廷から食事支給(日給米1升、塩菜銭50文)があり、立派な校舎で学べ、専門教師が常駐する環境を指摘。「学業が進まないのは才能不足ではなく、集中力の欠如だ」と断言するくだりは、現代の教育問題にも通じる洞察だ。
人生最大の後悔は往々にして「学生時代に勉強しなかったこと」に集約される。白髪になって初めて「若い頃もっと学べば」と悔やむ。時間は巻き戻せないが、歩みは前へ進められる。「過去の過ちを知れば学問は日々向上し、世の中の優れた点を見れば徳は日々高まる」。これこそ大人が再び『送東陽馬生序』を読む意義なのだろう。