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万暦帝はなぜ張居正を粛清したのか?

多くの人が張居正の改革を偉大だと思うのは、彼らが世界史をほとんど読まず、張居正のいわゆる改革にどんな問題があったのか理解していないからだ。簡単に言えば、張居正以前の大明王朝では銀は決して法定通貨ではなく、民間では使用されていたが中央政府レベルでは銀を合法通貨と認めず、宝鈔と銅銭だけを認めていた。なぜか?中国は銀を産出しないからだ。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

多くの人が張居正の改革を偉大だと思うのは、彼らが世界史をほとんど読まず、張居正のいわゆる改革にどんな問題があったのか理解していないからだ。簡単に言えば、張居正以前の大明王朝では銀は決して法定通貨ではなく、民間では使用されていたが中央政府レベルでは銀を合法通貨と認めず、宝鈔と銅銭だけを認めていた。なぜか?中国は銀を産出しないからだ。銀を貨幣として中央戸部が発行する宝鈔と銅銭に代用することは、現代で言えば人民元を放棄して米ドルを法定通貨にするようなもの。何が目的だ?当時の世界の「紙幣印刷機」はアメリカ大陸だった。明がアメリカ大陸を征服し銀の主産地を支配していれば、銀を通貨とするのは理にかなっていた。アメリカを征服せずに銀を使用するのは、印刷機を他国に握らせるようなものだ。

成化年間には既に張居正とほぼ同じ改革案が提案されていたが、歴代皇帝は同意しなかった。張居正が実行できたのは当時の皇帝が10歳で、彼が皇帝の師傅であり、皇帝の母・李太后と不義の関係にあったと噂されていたからだ。後に万暦帝が張居正を墓から引きずり出して罰しようとしなかったのは、母后が許さなかったから。「これはあなたの先生よ、どうしてそんなことができるの?」というわけだ。

張居正改革後、明朝中央戸部は完全に通貨発行権を失い、国家の経済金融は江南の士紳・富商に牛耳られた。全国の銀が江南四省(南直隷、浙江、湖広、江西)に流入したためだ。後に万暦帝が江南士大夫を恐れた理由は、銀が彼らに握られていたから。彼らが「朱常洛を皇太子にせよ、朱常洵を太子に封じてはならない」と言えば、万暦帝は封じることができなかった。それほど強大だった。だから張居正を善人と言えるだろうか?

当時西洋の君主たちも通貨発行権を民間銀行や会社(東インド会社が債券・株式・通貨を発行)に委ねていたが、前提として国王が出資者となり、経営許可証を発給し、特許権と引き換えに納税を義務付けていた。このモデルで西洋諸国は世界を制覇したが、張居正改革60年後の明朝は滅亡した。

明朝人が通貨鋳造権の重要性を理解していなかったわけではない。靳学顔は「銭を用いれば民生日に裕福になり、銭を鋳造すれば国用益々豊かになる。これは君主のみが行える大業である」と明確に主張し、朝廷が管理する銀が限られていることを指摘した(下記表参照)。黄宗羲は税の銀納化を「課税対象と生産物が一致しない」と批判し、顧炎武は「銀の量が増えないのに税負担が倍増する」と通貨収縮を指摘、王夫之は「銀は汚職を容易にする」と述べた。

 

改革項目
 

改革項目

数値データ

江南富裕層の銀保有量

数十万両

明朝国庫の銀保有量

100万両以上

商税税率改正前

30分の1

商税税率改正後

60分の1

北運送時の米価上昇率

100倍

主要銀流通地域

南直隷・浙江・湖広・江西


張居正の税制改革は輸送費問題も深刻化させた。貨幣税化で銀は容易に北京へ運べるが、食糧輸送は困難だった。特に後金の反乱で北方の物流が混乱すると、貨幣税と現物納税の差が拡大した。
海瑞は嘉靖年間に「一条鞭法は江南では可能だが北方では不可能」と警告していた。銀納税は人為的な通貨不足を招き、物資流通を阻害した。現代中国建国初期でさえ食糧確保後に金融改革を行ったのに、張居正は強引に実施した。これは国家に対する責任ある態度だろうか?

一条鞭法が農民好みの銅銭でなく地主商人好みの銀を採用したこと自体、張居正が誰の利益代弁者か明らかだ。現物税から銀納税への転換は、江南地主官僚集団に北方軍の間接的支配を許す結果を招いた。北方の食糧生産量では辺境軍を維持できず、米価100倍上昇や食糧供給停止で防衛線が崩壊する危険性を抱えたのだ。

張居正自身が塩商出身で、全国に一条鞭法を推進することで最大の利益を得たのは南方商人集団だった。農業税は増加したが商税は逆に半減させている。これは明らかな利益誘導である。

考成法の本質は国家監察権を内閣に集中させることにあった。これにより内閣は六部をコントロールできる強大な権力を掌握し、皇帝と六部官僚の権力を制約した。万暦帝が親政後にこの構造に気付き、宰相権力の集中を危惧したことが張居正死後の弾劾につながった。

張居正が北方の田地調査を成功させたのに対し、東林党の本拠地である南方では実施困難だったことも、改革の限界を示している。彼が太后・宦官・戚継光らの支持を得られたのは幸運だったが、改革で利益を損ねた官僚たちの恨みは深く、死後の家族虐待(餓死させるなど)はその反動の激しさを物語る。

一条鞭法自体は善政でも仁政でもなく、朝廷の税収増加策に過ぎなかった。自耕農には若干有利でも小作農には地主的転嫁が発生し、銀入手の過程で二重の搾取を受ける構造的欠陥を抱えていた。真に効果的な改革とするには田地調査徹底・丁銀均等化・士紳一体納税などの後続政策が必要だったが、張居正には実現不可能だった。

最大の問題は、銀の供給がアメリカ産銀に依存した点にある。明朝は通貨発行権を海外貿易に委ね、地域間物価差(山東と広州など)を無視した統一銀納税を強制した。農民は生涯ほとんど銀に触れる機会がなく、税納のために官紳集団に依存せざるを得ない構造は、必然的に土地喪失と貧困化を加速させた。

真の改革には商鞅のように旧勢力の利益を大胆に切り捨て新勢力を育成する覚悟が必要だ。王安石や張居正のような妥協的改革は流血を避けようとする限り持続不可能である。君主は『商君書』『管子』『塩鉄論』『左伝』を学ぶべきで、儒者が推奨する『資治通鑑』のような道徳書では真の統治術は習得できない。張居正が万暦帝に『左伝』ではなく『資治通鑑』を教えたことが、後の悲劇を招いた一因と言えよう。


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