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李定国をどう評価すべきか

窮地に立たされるたび、李定国はあの日のことを思い出した。崇禎三年、まだ安西将軍でもなく「小尉遲」と呼ばれることもない、ただ腹を空かせた少年だった。物心ついた頃からずっと飢え続け、なぜ毎年飢饉が起こるのかもわからなかった。『孫子兵法』を何度読んでも腹は満たされない。飢えの極みで起こるのは、死ぬか反乱か——樹皮を採っていた時に義父と出会い、その理由は単純だった「非凡な風貌」。時は流れ1646年、大西軍は清軍に敗北。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

窮地に立たされるたび、李定国はあの日のことを思い出した。崇禎三年、まだ安西将軍でもなく「小尉遲」と呼ばれることもない、ただ腹を空かせた少年だった。物心ついた頃からずっと飢え続け、なぜ毎年飢饉が起こるのかもわからなかった。『孫子兵法』を何度読んでも腹は満たされない。飢えの極みで起こるのは、死ぬか反乱か——樹皮を採っていた時に義父と出会い、その理由は単純だった「非凡な風貌」。

時は流れ1646年、大西軍は清軍に敗北。李定国は清将古朗阿・巴揚阿を斬ったが、張献忠は数本の矢を受け西充鳳凰山で絶命した。生涯をかけて明に反旗を翻した張献忠が最期に残したのは「明朝三百年の正統、必ずしも急に絶えず、これも天意なり。我が死後、急ぎ明に帰順せよ、不義を行うなかれ」という遺言だった。

 

《主要戦役データ(1646-1647)》
 

年月

戦場

参戦兵力

主要武将

結果

1646年冬

西充鳳凰山

大西軍5万 vs 清軍8万

張献忠、李定国

張献忠戦死

1647年春

長江渡河戦

飢餓状態の大西軍3万 vs 南明軍10万

曾英

大西軍勝利


生死の境で大西軍は長江を強行渡河。江北を守る南明の曾英軍10万に対し、十余日も食糧のない状態ながら、不屈の戦意で渡河を果たし敵軍を崩壊させた。この戦いが李定国にとって最も愉快な戦いだった——四人が猜疑なく団結していたからだ。

1647年、貴州に進入した大西軍は破竹の勢いで貴陽・定番州・永寧州を陥落。貴陽会議で孫可望が嶺南進出を主張する中、李定国は故郷陝西の惨状を思い浮かべていた。十年にも及ぶ大旱魃に貪官汚吏、清兵の虐殺——義父の無差別殺戮を止められなかった悔恨が、今度こそ清軍を震え上がらせると決意した。

 

《貴州平定戦データ(1647-1648)》
 

攻略都市

守備兵力

攻城期間

戦利品

貴陽

8,000

3日

兵糧2万石

定番州

5,000

7日

火薬300担

永寧州

3,000

1日

戦馬500匹


1652年の桂林攻防戦では定南王孔有徳を自刃に追い込み、同年11月には清の名王ニカンを斬首。黄宗羲が「万暦戊午以来の全盛天下さえ成し得ざる所」と称賛した二大名王討伐は、清朝廷に震え上がらせた。


《二大名王討伐戦データ》
 

戦役名

期間

兵力比

戦果

桂林戦役

1652年夏

2万 vs 3万

孔有徳自刃

衡陽戦役

1652年冬

1.8万 vs 2.5万

ニカン戦死


しかし1654年の新会包囲戦で鄭成功の援軍が来ず敗北。1657年の交水戦役では3万の寡兵で孫可望14万を破るが、1659年の磨盤山血戦では裏切り者が発生し決戦機を逃した。


《最終決戦データ(1659年)》
 

項目

明軍

清軍

兵力

6,000(伏兵)

4万(先鋒)

戦死者数

4,200

12,000

主要損害

全伏兵の70%

都統級13名

 

1662年、永暦帝が殺害された報せを受けた李定国は「国と君に背き、天下万世に何をもって謝そう」と血涙を流し、42歳で生涯を閉じた。彼の遺した「荒れ地で死ねども降伏するな」という言葉は、民衆のために戦い続けた英雄の真骨頂を示している。


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