なぜ明王朝は領土を一寸も拡張しなかったのか?
明王朝の拡大した領土は漢化が徹底していたため、現代人からは当然の「固有領土」と見なされがちだ。しかし明朝の領土拡大プロセスは、本質的に漢字・漢語を媒介とした漢文明の不死鳥的再生と再拡張であった。元末明初の中国大陸がどのような光景だったか、現代の私たちには想像もつかないかもしれない。
明王朝の拡大した領土は漢化が徹底していたため、現代人からは当然の「固有領土」と見なされがちだ。しかし明朝の領土拡大プロセスは、本質的に漢字・漢語を媒介とした漢文明の不死鳥的再生と再拡張であった。
元末明初の中国大陸がどのような光景だったか、現代の私たちには想像もつかないかもしれない。まず広く知られるのは北方燕雲地区が五代以降異民族支配下にあった事実だ。
石敬瑭が燕雲十六州を割譲して以来、この地の漢人は服装・飲食・習俗などあらゆる面で北方民族に同化していった。北宋の記録『契丹風土記』には「虜中に掠はれた燕・薊の民多く、雑居する蕃界に皆頂を削り髪を垂れ、其の俗に従ふ。唯中衫稍異なりて、以て蕃漢を別つ」とある。蘇軾の弟・蘇轍が遼朝使節として目撃した光景は、その詩『奉使契丹二十八首 - 燕山』に「哀哉漢唐余 左衽今已半」と詠まれるほど深刻だった。
西北の河西・寧夏地区の胡化はさらに早く、安史の乱後の唐朝中期に始まる。晩唐詩人司空図の「漢児尽く胡児の語を作し、却って城頭に漢人を罵る」という詩句が、河湟地域の漢人が言語まで変質しアイデンティティを喪失した実態を伝える。張議潮率いる帰義軍の抵抗も、中原勢力の衰退で持続せず、やがてウイグル・タングートに飲み込まれた。明朝軍が河西に進入した時、漢語を解する漢人はほぼ消滅し、畏兀児・ハラルク・キプチャク・康里・アス・タングート・アルグン・回回など多様な民族が「回回語(アラビア文字表記)」を共通語とする異文化地帯と化していた。
最も深刻だったのは西南地域だ。五胡十六国時代以降、漢人支配は崩壊し、南詔が雲南を統一。天宝戦争で唐軍を撃退した後は独自の文字を持つ成熟文明を築いた。モンゴル支配を含め700年間の隔絶で、雲南は完全に「蛮地」と化し、漢文明は断絶。交州(ベトナム)でも漢人が虐殺され、伝統的漢地が完全に喪失した。
金元時代には中原まで胡化の波が押し寄せた。金朝詩人趙秉文が宋を「孽宋」「丑虜」と罵るなど、南北漢人の相互不信は深刻化。元朝の四等級制(モンゴル・色目・漢人・南人)は南北分裂を固定化し、蕭啓慶教授が指摘するように「漢人と南人は事実上別民族」となった。北方漢人の間ではモンゴル語学習・モンゴル名使用が流行し、婚姻習俗(収継婚)や礼法(胡跪)まで変質。伝統的華夷秩序は完全に崩壊し、「中華」は空洞化した称号となっていた。
安史の乱から明朝成立までの600年は、漢文明の長い暗黒時代だった。しかし明朝の出現がこの趨勢を逆転させた。洪武元年(1368)、徐達・常遇春率いる北伐軍は3ヶ月で山東を奪還。洛水の戦いでは常遇春が50里を追撃し元軍を殲滅。8月には大都を陥とし、450年ぶりに燕雲十六州を回復した。
西南方面では1381年、傅友徳・藍玉・沐英率いる30万軍が雲南征服。大理を制圧後、軍屯と漢化政策を徹底。下表に示す大規模な移民政策で漢人比率を向上させた:
時期 |
移民元帥 |
移住人数 |
出典 |
---|---|---|---|
洪武20年8月 |
曹震 |
25,000 |
『明太祖実録』巻184 |
洪武20年10月 |
耿炳文 |
33,000 |
『明太祖実録』巻186 |
洪武21年2月 |
馬燁 |
33,000 |
『明太祖実録』巻188 |
文化面では「白語禁止令」を施行(違反者罰米2斗)、儒学館を各地に設置。沐英一族が260年にわたり雲南を統治し、漢文明を中南半島まで拡大した。
民族再統合では「南北榜事件」が象徴的だ。1397年会試で南方出身者だけが合格した事態に朱元璋が激怒、考官を処刑し北方士子61人を新たに登用。科挙の地域枠を設定し北方士人の登用を保証した。
衣冠制度の復古も徹底。洪武元年詔書で「髪型・衣服を唐制に復す」と宣言。『御製大誥』で「風俗教化は行政の要」と強調し、儒教を正統イデオロギーに再確立。礼制復興では『太祖実録』に「元代に廃された礼制を先王の典に基づき復活」と記される。
道統復興戦略では元朝を「変統」と位置付け『諭中原檄』で「胡虜に百年の運なし」と宣言。詔書群を通じ華夷秩序を再構築し、例えば「中国は本来我が華夏の君の主とす」(『免北平等処税糧詔』)と漢民族の歴史記憶を喚起した。
このように明朝は、分断された南北漢人を再統合し、失われた文明を再構築。漢字・漢語・漢文化を不可逆的な文明基盤として確立した。ローマ帝国が滅亡した後ラテン語が死語化したのとは対照的に、明朝の存在が中国文明の連続性を保証したのである。
ある種の勢力が期待した「鯨の死による万物生成」の劇は起こらず、不死鳥の如く蘇った漢文明は再び東アジアの秩序を主導した。