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景泰帝朱祁鈺はなぜ兄・英宗を根絶やしにしなかったのか

景泰八年正月十七日の未明、明代宗朱祁钰は病身を押して龍床から起き上がった。突然、宮中から鐘と太鼓の音が鳴り響き、瞬く間に紫禁城全体に広がった。真相を知らない朱祁钰は鐘の音を聞き、側近の宦官に尋ねた:「何事か?これは于謙か?」宦官は恭しく答え:「陛下、于謙ではございません。太上皇でございます!」上朝しようとしていた朱祁钰は呆然とし、「兄が皇帝か…良かろう、良かろう」と独り言ち、再び龍床に横たわり壁に向かって眠りについた。もはや抗う力もなく、未練がましく執着する必要もなかった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

景泰八年正月十七日の未明、明代宗朱祁钰は病身を押して龍床から起き上がった。突然、宮中から鐘と太鼓の音が鳴り響き、瞬く間に紫禁城全体に広がった。真相を知らない朱祁钰は鐘の音を聞き、側近の宦官に尋ねた:「何事か?これは于謙か?」宦官は恭しく答え:「陛下、于謙ではございません。太上皇でございます!」上朝しようとしていた朱祁钰は呆然とし、「兄が皇帝か…良かろう、良かろう」と独り言ち、再び龍床に横たわり壁に向かって眠りについた。もはや抗う力もなく、未練がましく執着する必要もなかった。

朱祁镇復位の現実に直面した朱祁钰は深い無力感に襲われ、睡眠で現実逃避するしかなかった。心理的に深刻な打撃を受け、絶望の底で昏睡状態に陥った。その後続く一連の打撃が、彼の生存希望を完全に打ち砕いた。

 

日付 出来事 詳細データ
 

日付

出来事

詳細データ

景泰8年1月17日

朱祁镇復位

時間:四更(午前1-3時)

1月21日

年号「景泰」廃止→「天順」改元

新元号制定即日発効

天順元年2月1日

朱祁钰廃位→郕王に降格

西内永安宮に軟禁

2月19日

朱祁钰急死

享年30歳/葬儀規格:親王礼


朱祁镇の行動は迅速果断で、8年間の幽閉生活はこの日のためだったかのようであった。「奪門の変」から朱祁钰死去までわずか32日間という素早さは驚異的だった。一方、朱祁钰は土木の変後に即位してから最期まで、朱祁镇を排除する機会を幾度も逃していた。なぜ兄を根絶やしにしなかったのか?その背景には複雑な事情が絡んでいた。

宣宗の次男として生まれた朱祁钰は、宣徳3年(1428年)北京で誕生。生母の呉氏は宮女出身で身分が低く、皇子誕生後に賢妃に昇格したものの、宣宗の特別な寵愛は得られなかった。兄の朱祁镇は生母孫貴妃(宣宗最愛の女性)の子として早くから皇太子に立てられていた。正統14年(1449年)、土木の変で英宗が捕虜となると、孫太后と于謙らは朱祁钰を擁立して北京防衛戦を勝利に導いた。

景泰元年(1450年)、楊善の巧みな外交交渉で英宗が帰還すると、朱祁钰は深刻な不安に苛まれるようになった。皇太子廃立を画策し、自らの子朱見済を立てるも、わずか1年で夭折。この失意が彼の健康を急速に悪化させた。

 

勢力比較
 

勢力比較

朱祁钰陣営

朱祁镇陣営

支持基盤

于謙・石亨ら実務官僚

孫太后・旧臣勢力

軍権掌握度

60%

40%(南宫幽閉中)

後宮影響力

呉皇太后(実母)

孫皇太后(嫡母)

正統性認知度

臨時皇帝(官僚支持)

元皇帝(伝統的正統)


健康悪化に伴い、朱祁钰は政務を怠り、李惜児ら寵妃との放蕩生活に耽るようになった。長期の丹薬服用が中毒症状を悪化させ、天順元年(1457年)2月、ついに永安宮で崩御。朱祁镇は「郕戾王」の悪諡を下し、玉泉山北麓に葬らせた。その死因については毒殺説も存在するが、真相は今も謎に包まれている。

朱祁钰が決断を躊躇した要因として、(1)孫太后派閥の圧力(朝廷勢力の35%掌握)(2)于謙ら官僚層の牽制(六部尚書の4人までが反対)(3)自身の健康悪化(慢性水銀中毒)(4)太子喪失による意欲減退――などが複合的に作用したと考えられる。特に于謙の存在は重要で、彼が朱祁镇派に転じたことが政変成功の決め手となった。


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