権勢を極めた魏忠賢、なぜ17歳の崇禎帝に敗れたか――明朝末期権力闘争の意外な力学
彼はわずか三つの段階で、魏忠賢を首魁とする宦官派閥を瓦解させることに成功しました。第一は麻痺と試探、第二は隠居勧告、第三は一網打尽です。その全貌を見てみましょう。1627年の晩秋、皇位継承の夜が訪れました。
彼はわずか三つの段階で、魏忠賢を首魁とする宦官派閥を瓦解させることに成功しました。第一は麻痺と試探、第二は隠居勧告、第三は一網打尽です。その全貌を見てみましょう。
1627年の晩秋、皇位継承の夜が訪れました。薄霧に包まれた北京城で、木工職人皇帝として知られた朱由校の健康状態が悪化し、ついに8月に未完成の木工品への未練を抱えたままこの世を去りました。後継者のいない皇位は空白地帯となり、その隙間を埋めたのは17歳の弟・朱由検、後の崇祯皇帝でした。
兄の病床に立つ若き崇祯は、皇位以上に重要なもの――権勢を振るう大宦官魏忠賢との戦いを覚悟していました。東林党を抑え込み朝廷を実質支配する魏忠賢に対し、崇祯は年齢不相応の冷静さで挑みます。
第一幕:麻痺と試探
天啓7年9月1日、魏忠賢が「隠居願」を提出。これは新皇帝の真意を探る罠でした。崇祯は直々に謁見し「先帝は張皇后と貴殿を信じよと遺言された」と告げ辞任を拒否。しかし乳母の客氏の辞表は即座に受理し、魏忠賢に心理的揺さぶりをかけます。続いて司礼監筆頭太監・王体乾の辞任も拒否し、更に宦官派閥の者々を昇進させることで完全に警戒心を解かせました。
第二幕:隠居勧告
9月24日、国子監副長・朱三俊が魏忠賢派の監生を弾劾。崇祯は速やかに逮捕命令を下しますが、魏忠賢の処分要請には「これ以上追求せず」と突っぱねました。翌日、江西巡撫・楊邦憲が魏忠賢祠堂建立を提案すると、逆に未完成の祠堂建設を中止させ、甥・魏良卿に免死鉄券(実際は無効)を授与するなど、巧みに人心を離反させます。
崔呈秀弾劾事件が発生すると、兵部尚書を留任させつつ他の3名の辞職を許可。魏忠賢が部下を切り捨て始めたことで、派閥内に亀裂が生じ始めました。
第三幕:一網打尽
10月22日、陸澄源が崔呈秀と魏忠賢を同時弾劾。崇祯は崔の辞表を受理し、48時間後に兵部主事と刑部員外郎・史躬盛の弾劾が続きます。魏忠賢が御前で号泣する醜態を演じた直後、国子監生・銭嘉徵が「魏忠賢十大罪状」を提出。11月1日、徐応元の助言で魏忠賢が辞表を提出すると、崇祯は即日受理しました。
40台の荷車で財産を運び出そうとした魏忠賢でしたが、権力を失った彼に逃げ道はありません。崇祯は直ちに逮捕命令を発し、宦官派閥の大粛清を開始します。
【処分内容詳細表】
処分対象 |
処分内容 |
人数 |
---|---|---|
魏忠賢 |
凌遅刑(死後) |
1 |
客氏 |
斬首刑(死後) |
1 |
崔呈秀 |
斬首刑(死後) |
1 |
主要幹部 |
秋後処斬 |
24 |
中級官僚 |
終身刑 |
89 |
下級官吏 |
流刑・軍役 |
127 |
その他 |
免職 |
19 |
総処分人数 |
|
261 |
この粛清劇は、若き皇帝が老獪な権力者を心理戦で翻弄し、わずか3ヶ月で261名の大派閥を瓦解させた中国史上稀に見る権力闘争となりました。特に「免死鉄券」と「祠堂建設中止」の二段構えや、弾劾奏折を本人に朗読させるという心理的圧迫手法は、帝王学の真髄を示すものと言えるでしょう。