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明代宣府古城:王都から府城への機能転換と都市計画の変遷

宣化古城の機能は都市の計画と設計の根拠となる。都市機能の変化は、往々にして都市のレイアウトも変化させる。明代の宣化古城は王城から軍事機能を主とする鎮城へ、さらに商業性を主とする府城へと変遷する過程で、その都市レイアウトも王城様式から府城様式、さらに「離」の字形配置へと発展した。張家口市宣化区の明清古城は河北省重点文化財保護単位に指定され、ほぼ完璧に残る城郭、清遠楼・鎮朔楼・昌平門の三つの楼門が雄大で壮麗であり、古城の風貌が当時のまま保たれていることは全国的に見ても稀である。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

宣化古城の機能は都市の計画と設計の根拠となる。都市機能の変化は、往々にして都市のレイアウトも変化させる。明代の宣化古城は王城から軍事機能を主とする鎮城へ、さらに商業性を主とする府城へと変遷する過程で、その都市レイアウトも王城様式から府城様式、さらに「離」の字形配置へと発展した。

張家口市宣化区の明清古城は河北省重点文化財保護単位に指定され、ほぼ完璧に残る城郭、清遠楼・鎮朔楼・昌平門の三つの楼門が雄大で壮麗であり、古城の風貌が当時のまま保たれていることは全国的に見ても稀である。宣化古城の歴史は少なくとも唐代まで遡ることができる。元代には宣徳府と呼ばれ、明軍占領後は軍鎮として設計され宣府と改称された。

宣化古城は宣化盆地の北東部に位置する。平坦な河谷帯状平野に築かれ、城北には標高1000メートルの煙筒山、城南には洋河、城西には柳川河、城東には大泡沙河・小泡沙河が流れる。『管子』に「高山の下に非ずんば必ず広川の上に在り、高きは旱に近きこと無くして水用足り、低きは水に近きこと無くして溝防省く」とある通り、軍事機能を主とした城として宣府古城は優れた立地を選んだ。しかし地理的条件の影響で水害・旱魃に悩まされることも多かった。

明代には北方の辺境問題と沿海の倭寇が深刻化し、煉瓦製造技術の向上も相まって、明代は中国築城史上の最盛期を迎えた。宣府も明代に発展し、歴史の流れと共にその都市機能は三度の大きな変化を遂げ、都市計画もそれに伴って変遷した。


明代宣化古城的变迁


明洪武元年(1368年)、明が宣徳府を占領し宣府と改称。洪武24年(1391年)、谷王朱橞(明太祖朱元璋の第十九子)が宣府藩守として封じられ(1391-1399年)、城中心部北寄りに谷王府(通称皇城、遺跡は現在の皇城橋北から五虎街一帯)を建設。後に「城が狭隘で兵士を駐屯させるに足りず」として城郭を拡張し、煉瓦で城壁を補強した。各辺約6里(約3.3km)、通称「六里十三歩」。周囲24里(約13.2km)、7つの門を設けて耕作と放牧に供した。北に高遠門・広霊門、東に定安門、西に泰新門、南に永安門・宣徳門・昌平門を配置。宣徳門を除く6門は城壁の三分点に位置し、宣徳門から谷王府を結ぶ南北大路を中心軸とする標準的な王城レイアウトを形成した。当時の宣府城の規模は西安・洛陽を凌駕していた。現存する設計図面はないが、建設者の独創性と職人魂が感じられ、『考工記・匠人営国』の理想モデルと風水理論の完璧な融合と言える。

時代の流れは残酷であった。永楽帝の削藩政策により未完成の王城は普通の鎮城に格下げされ、宣徳・永安・高遠の3門を閉鎖。軍事機能が主目的となった。その後百年間にわたり大規模な建設が行われ、永楽22年(1424年)には総兵官譚広が指揮し、閉鎖された3門の状況を考慮して新たな設計を実施。広霊門(北)・昌平門(南)・定安門(東)・泰新門(西)の4門を煉瓦石造りとし、門楼と四隅に角楼を建立。現存する昌平門(拱極楼)は当時の姿を保ち、城壁は「厚さ4丈5尺(約14m)、基礎に3層の石積み、煉瓦は堞まで高さ2丈8尺(約9m)、堞の高さ7尺(約2.3m)、総高3丈5尺(約11m)、頂部幅は1丈7尺(約5.5m)減じ、各門外に瓮城・月城を設け、堀を掘り、跳ね橋を設置」という詳細な仕様で強化された。

 

宣化古城建设数据
 

年代

主な建設内容

構造データ

1391年

谷王府建設・城郭拡張

周囲24里(約13.2km)、7門設置

1424年

四門煉瓦化・角楼建設

城壁厚4丈5尺(14m)、総高3丈5尺(11m)

1441年

鎮朔楼(鼓楼)建立

楼高約20m、三層木造建築

1482年

清遠楼(鐘楼)建立

楼高17m、十字形アーチ門洞

1617年頃

玉皇閣・紅牌楼建立

商業街区延長4-5里(2.2-2.7km)


1441年(正統6年)、羅亨信が鎮朔楼(鼓楼)を建立。1482年(成化18年)、秦紘が清遠楼(鐘楼)を完成させた。これらを中心に、鐘鼓楼両側に役所区、楼南に四牌楼を整備。清遠楼・鎮朔楼・四牌楼と南北門を結ぶ新たな軸線が形成され、都市の重心が東へ移動。新軸線上に龍神祠(北門外)、演武庁(南門外)などを配置。風雲雷雨山川壇(城東)、社稷壇(城西)、歴壇(城北)など標準的な府城レイアウトを確立した。

1571年(隆慶5年)、明王朝がモンゴル・タタール部と和解し、互市制度が確立。張家口が商業都市として急成長する中、宣府鎮の軍事機能は衰退し経済・交通拠点として重要性を増した。駐屯軍が減少し商業人口が増加、経済中心が西側に移動。泰新門内に商店街が発展し張家口商路の起点となった。1617年(万暦45年)頃、玉皇閣(清遠楼と対称)・紅牌楼(四牌楼と対称)を建設し新たな均衡構造を形成。谷王府が再び都市の中心となり、南側に「各種市場が4-5里(約2.2-2.7km)にわたって連なる」商業区が形成された。

民間伝承では万全城が「萬」の字構造と言われる。万全都指揮使司(宣府鎮に駐屯)に因み、観東街・観西街の延長線が横画、鐘楼北街・閣北街が縦画を形成。中央の王城は「田」字、閣南街・皇城橋西街などが「丿」と「乙」を構成。九天廟街から牌楼西街が横画、四牌楼が点画となり、全体で「萬」字を形作る。偶然ながら必然性を感じさせる都市設計である。


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