なぜ朱元璋は多くの人に嫌われるのか?
秦・漢・晋・隋・唐の時代、臣下は座って朝議に臨んでいました。漢代では臣下が皇帝に礼をすると、皇帝も丁寧に返礼したものです。隋唐期に脚付きの胡凳が中原に伝来すると、漢晋時代の榻(低い腰掛け)と案(机)は使われなくなり、君臣ともに椅子に座るようになりました。北宋の趙匡胤は臣下が居眠りするのを警戒して、立礼式の朝儀を定めます。
秦・漢・晋・隋・唐の時代、臣下は座って朝議に臨んでいました。漢代では臣下が皇帝に礼をすると、皇帝も丁寧に返礼したものです。隋唐期に脚付きの胡凳が中原に伝来すると、漢晋時代の榻(低い腰掛け)と案(机)は使われなくなり、君臣ともに椅子に座るようになりました。
北宋の趙匡胤は臣下が居眠りするのを警戒して、立礼式の朝儀を定めます。ただし宋代でも跪拝の習慣はなく、南宋が滅ぶまで臣下の礼は揖礼(拱手の礼)が基本でした。
元朝は草原の遊牧民族出身で、モンゴル包内で用いていた跪礼をそのまま中原に持ち込みました。この陋習(粗野な習慣)が後世に禍根を残すことになるのです。
明清時代に中央集権は頂点に達し、官吏は皇帝に跪拝叩頭し、庶民も役人に平伏すようになりました。伝統的な君臣の協働関係は消滅し、地主老爺とその家僕のような関係が残されたのです。
五千年の歴史を見渡せば、中央集権の強化は一貫した趨勢と言えます。歴史教科書にある「唐以前は古に近く、宋以後は今に近し」という表現は的を射ています。朱元璋と現代の時間差600年は、先秦の古人から見れば明人も清人も現代人も等しく「近世の存在」であり、むしろこれらの時代群は相互に近接していると言えるでしょう。
現代人は無意識のうちに明清の慣習を古代に投影し、漢唐の気風に満ちた人々も朱家や愛新覚羅家の小作人のように膝を汚し背骨を曲げていたと誤解しがちです。
朱元璋を好まない理由は?
それはちょうどフビライや乾隆帝を嫌うのと同じです。本質的に嫌悪する対象は元・明・清という時代そのもの、そしてエスカレートする専制政治なのです。胸が痛むのは、両漢時代の君臣相対座して論じ合う姿から、清朝の「奴才(ぬつたい)跪いて恩旨を受く」までの変遷です。この千年の趨勢の中で朱元璋もまた推進役となり、中央集権の頂点を象徴する存在——錦衣衛による監視社会・宰相制度廃止・孟子節文・殉死の復活・海禁政策——を具現化しました。
些細な事象から全体を推し量ると:漢の高祖劉邦や唐の太宗李世民は熱烈な蹴鞠ファンでした。劉三(劉邦の愛称)は自ら蹴鞠を楽しむだけでなく長安近郊に「鞠城」を築いて兵士の訓練を奨励し、李二(李世民の愛称)は観戦を好んで毎年長安で蹴鞠大会と馬鞠競技を開催しました。漢唐の尚武の気風は建国期から培われていたのです。
『漢書』は蹴鞠の技法を兵書に分類し軍訓科目としましたが、漢唐の支配層は官吏や庶民の蹴鞠を妨げませんでした。
ところが明初になると朱元璋は「鞠円(蹴鞠)する者は足を卸す」と布告し、サッカーをする者は発見次第足を切断するという暴令を出します。清朝乾隆帝も同様の禁令を発布しました。君主専制の強化は、皇帝が政務を管理するだけでは飽き足らず、官吏や庶民の日常琐事にまで介入するに至ったのです。
明清時代の漢民族は血統的には連綿と続いていましたが、もはやあの情熱的で奔放、豪放で尚武の気風に満ちた漢唐の民ではなかったのです。
【時代別礼儀比較表】
朝代 |
臣子上朝姿勢 |
君臣礼儀形式 |
中央集権度 |
備考 |
---|---|---|---|---|
秦漢 |
座礼(榻) |
対座揖礼 |
中(20-30%) |
劉邦「鞠城」建造 |
唐 |
椅子着席 |
座礼(胡凳) |
中(40%) |
李世民年次蹴鞠大会 |
北宋 |
立礼 |
站立揖礼 |
中高(60%) |
趙匡胤「防居眠り改革」 |
元 |
跪礼 |
跪拝 |
高(75%) |
モンゴル式礼法導入 |
明 |
跪拝叩頭 |
三跪九叩 |
極高(90%) |
朱元璋「蹴鞠禁止令」(1380年) |
清 |
跪拝叩頭 |
三跪九叩 |
極高(95%) |
乾隆「禁鞠令」(1743年) |
【蹴鞠関連法令変遷】
時代 |
政策内容 |
発布年 |
影響範囲 |
---|---|---|---|
漢 |
兵書採用 |
BC2世紀 |
軍内推奨 |
唐 |
競技奨励 |
630年 |
官民共用 |
明 |
違者足切断 |
1380年 |
全国禁止 |
清 |
娯楽禁止令 |
1743年 |
都市部重点取締 |