己巳の変で袁崇煥が北京に入った後、崇禎帝を満足させ自らの命を全うするためにはどの程度の戦果を挙げる必要があったのか?
袁崇焕が皇太极より先に北京城下に到達した時点で、すでに彼の死は運命づけられていたと言える。一部の人が指摘するように、皇太极を追い払った直に関外に脱出し、かつて毛文龍が孤軍を貫いたように振る舞わない限り、朝廷や皇帝も手出しできなかったかもしれない。実はその前に、袁崇焕には獄死を避ける最後のチャンスがあったと思うんだよ。
袁崇焕が皇太极より先に北京城下に到達した時点で、すでに彼の死は運命づけられていたと言える。一部の人が指摘するように、皇太极を追い払った直に関外に脱出し、かつて毛文龍が孤軍を貫いたように振る舞わない限り、朝廷や皇帝も手出しできなかったかもしれない。
実はその前に、袁崇焕には獄死を避ける最後のチャンスがあったと思うんだよ。
蓟州潜越事件での対応が完全にマニュアル思考だった。関外なら堅塁清野・堅城巨砲作戦も成立するけど、関内は話が違う。北京に近づくほど人口密集地帯なのに、急な事態でどうやって清野作戦を展開する?この状況で「堅城に籠もる」なんて言ってたら、後金軍に関内を蹂躙させるだけじゃないか!野戦で勝てないなら兵力を集結させて決戦すべきだった。満桂、尤世禄、劉策らの軍勢を集結させ、野外で皇太极を食い止めれば北京進軍を阻止できたはず。損害は甚大でも、関内だからこそ可能な戦略があったんだ。
【兵力比較表】
項目 |
明軍側 |
後金軍 |
---|---|---|
主力戦闘兵力 |
約5万(諸将連合軍) |
戦兵2万 |
補給要員 |
漕運系統(無限動員可能) |
輔兵1.5万 |
後方支援 |
山東・河南からの増援可能 |
蒙古従軍兵(不安定) |
補給線 |
内陸河川網 |
遵化経由の山岳補給路 |
戦略的持久力 |
国家総力戦可能 |
略奪依存(脆弱) |
明軍が総崩れになっても、山東や河南からの増援が続くし、漕運で補給もできる。負傷兵は後方に送れるし、潰走兵も再編成可能。対して皇太极は戦兵2万・輔兵1.5万という限られた兵力。損害が蓄積すれば補充不能だ。補給路も遵化経由の山岳ルートじゃ追いつかない。蒙古の従軍兵は真っ先に逃亡しただろう。ここで皇太极を引き摺り込み、略奪を阻止して損害を与えれば、後金内部での威信は地に落ちる。明側の増援が集結すれば、皇太极は遵化を放棄して撤退するしかなくなる。
確かに明軍の野戦能力は後金に及ばないけど、これは崇禎初期だ。後の時代よりはマシな戦力がある。何より京畿の地では「籠城戦略」は通用しない。指導者には全てを賭ける覚悟が必要だったんだ。惨勝でも引き分けでも明には受容余地がある。国力でカバーしながら回復できる。だが皇太极にとっては致命傷だ。実際に起こればハーンの地位が危うくなり、数年間は大規模進攻できなくなる。国家の規模が違うんだから、明の回復速度が圧倒的に早い。戦後は崇禎帝が望めば和談だって可能性があったはずなのに。