明王朝で最も悲惨な戦いはどれか?
もちろん、1621年の渾河の戦いを挙げなければならない。この戦いは明末軍が脆弱だというイメージを打ち破っただけでなく、その戦いぶりはむしろ勇敢無比で敵を震え上がらせたと言えるほどだった。戦況は極めて凄惨で、戚家軍の最後の「棺桶代」まで失う結果となったのだ!
もちろん、1621年の渾河の戦いを挙げなければならない。
この戦いは明末軍が脆弱だというイメージを打ち破っただけでなく、その戦いぶりはむしろ勇敢無比で敵を震え上がらせたと言えるほどだった。戦況は極めて凄惨で、戚家軍の最後の「棺桶代」まで失う結果となったのだ!276年にわたる明朝の歴史を振り返ると、八旗軍との戦いは明軍にとって最も忌まわしい記憶と言える。関内の遵永大捷を除けば、明軍はまともに勝利した戦いなどなかった。
しかし1621年の渾河の戦いは、明軍が関外で比較的善戦した典型例と言える。
【戦争の背景】
1621年、平穏だった遼東の辺境に突然戦雲が垂れ込めた。後金から逃亡してきた漢人奴隷がもたらした情報は朝廷を震撼させた——後金の指導者ヌルハチが雲梯や盾車などの攻城兵器を急造し、瀋陽攻撃を準備中だという。古来より瀋陽は遼東の要衝であり、戦略的重要性は計り知れない。後金が遼東を制覇するためには瀋陽攻略が必須であり、明朝もこの重要性を認識して防衛体制を強化。浙江軍と四川軍という二つの地方精鋭部隊を遼東前線に急派した。同時に賀世賢総兵に親兵1,000と遼東軍数万を率いさせて瀋陽防衛と援軍待機を命じた。
この時点で戦闘が始まる前から、明軍はすでに劣勢に立たされていた。戦略的な配置に大きな問題はなかったが、細部に多くの欠陥を抱えていた。最大の弱点は防衛の要となる瀋陽の守備隊の質だった。彼らは勇猛ではあるが忠誠心に問題があり、優勢な戦況では追撃するが劣勢になるとすぐに潰走し、投降にも全く抵抗がない連中だった。
賀世賢総兵自身も問題を抱えていた。武挙(武官試験)出身の勇将ではあったが、酒好きの無鉄砲者で、個人の武勇はあれど大軍を統率する能力に欠けていた。第二の弱点は援軍として派遣された浙江軍と四川軍の関係だった。
【軍事情勢データ】
項目 |
浙江軍 |
四川軍 |
---|---|---|
兵力 |
3,000名 |
10,000名 |
主な装備 |
フランキ砲/火縄銃 |
白杆長矛/大盾 |
指揮官 |
戚金 |
秦良玉/周敦吉 |
戦闘経験 |
北方戦闘未経験 |
土司討伐経験あり |
兵站状況 |
補給不足 |
比較的充実 |
内部問題 |
兵力不足 |
編成混乱 |
浙江軍を率いる戚金は名将戚継光の甥だったが、この部隊は北方国境での戦闘経験がなく、軍資金不足と戦力消耗で窮地に立たされていた。3,000の兵力は東南地域からかき集めた最後の精鋭だった。一方、四川軍は数的優位を持つものの、秦良玉のような女傑と土司略奪で降格処分の周敦吉が混在し、統制が取れていなかった。
両軍は到着早々、些細な口論から武力衝突に発展。数的優位の四川軍が浙江軍を圧倒すると、逆上した浙江軍は火砲で報復し、民間家屋を巻き添えにした。朝廷は「敵が目前に迫っているのに内輪揉め」という伝統的な悪癖に激怒したが、秦良玉の謝罪でようやく収束。しかし両軍の不信感は解けず、連携不可能な状態に陥った。
【瀋陽陥落】
両軍が内輪揉めしている間、後金軍は瀋陽への総攻撃を開始。周辺要塞を次々と攻略したが、瀋陽城の二重城壁(高さ8m/厚さ10m)の前に進撃を阻まれた。しかしヌルハチの巧妙な策略で、賀世賢を城外におびき出し伏撃。賀世賢は14本の矢を受けながらも奮戦し、「城を守れなかった大将に面目ない」と最期まで戦って壮絶な死を遂げた(『明史』賀世賢伝)。続いて救援に出た尤世功総兵も戦死し、守備隊は崩壊。裏切り者が城門を開いたため、後金軍は難なく瀋陽を占領した。
この知らせを受けた浙江・四川軍は撤退を決めるが、周敦吉が「今こそ功績を挙げる時」と主張し、渾河での決戦を選択。この判断が両軍の命運を決めることになった。
【各個撃破】
川軍は白杆長矛と大盾の連携戦法で後金軍を苦しめた。八旗軍の騎兵突撃を火銃で迎え撃ち、接近戦では長槍を乱突して数百騎を討ち取る活躍を見せた(『満文老檔』)。しかし静態防御を旨とする浙江軍は橋南で傍観を続け、連携が取れないまま各個撃破される。川軍は李永芳率いる元明軍砲兵隊の攻撃で崩壊し、周敦吉・秦邦屏ら指揮官が戦死。生き残り数百名が浙江軍陣地へ逃れた。
浙江軍は戚継光伝来の車陣戦術で善戦。フランキ砲と三段撃ち戦法で八旗軍を撃退し、5mの狼筅(棘付き竹槍)で騎兵を翻弄した。しかし弾薬不足に陥り、総攻撃を受けて壊滅。戚金は「逃げるより戦場で死ね」と叫び、陳策・童仲揆ら指揮官とともに玉砕した。『明熹宗実録』は「一万人で数万の敵を相手に数千を討ち取った」とその勇戦を称えている。
【水増し援軍】
3万の明軍援軍が到着したが、李秉誠ら指揮官は戦場を傍観。偵察隊が後金の小部隊に追い返される醜態を演じ、皇太子ホンタイジの逆襲で総崩れとなり(死者3,000)、浙江軍の退路を閉ざした。代善・岳託ら後金将軍の追撃で、援軍は完全に瓦解した。
【戦後分析】
この戦いで八旗軍は9人の将軍を失い、ヌルハチは戦死者の大規模な追悼式を開催するほど深刻な打撃を受けた(『清太祖実録』)。魏源は「明軍1万が数万の敵と渡り合い、力尽きて滅びたが遼東戦役随一の血戦」と評している。しかしこの奮戦も明朝滅亡前の残光に過ぎず、軍の連携不足・人材不足・戦略的脆弱性を露呈する結果となった。
歴史家が指摘するように、この戦いは巨大帝国が衰退期に差し掛かると、名簿上の大軍を擁しながら実際に戦える精鋭部隊を編成できなくなる典型例と言える。渾河の勇士たちの奮闘も、すでに末期症状を示す明朝を救うことはできなかったのである。