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明朝の前後300年間に、どんな千古の謎が存在するのでしょうか?

明史上最大の謎——建文帝・朱允炆の行方。1399年、燕王朱棣が靖難の役を起こし、皇位奪取に動きます。1402年6月、朱棣が南京に攻め込むと、建文帝は皇后や太子・朱文奎と共に宮殿で自焚。三人の遺体は焼け爛れて顔も判別できない状態で炎の中から引きずり出されました。しかし朱棣は、本当に建文帝本人が死んだのか確信が持てませんでした。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

明史上最大の謎——建文帝・朱允炆の行方。

1399年、燕王朱棣が靖難の役を起こし、皇位奪取に動きます。1402年6月、朱棣が南京に攻め込むと、建文帝は皇后や太子・朱文奎と共に宮殿で自焚。三人の遺体は焼け爛れて顔も判別できない状態で炎の中から引きずり出されました。しかし朱棣は、本当に建文帝本人が死んだのか確信が持てませんでした。若く聡明な建文帝が謝氏一族の助力で混乱に乗じて逃亡し、どこかに潜伏しているのではないか? そんな疑念が朱棣の心を苛み続けます。帝位に就いたとはいえ、建文帝が生きている限り自分の治世は安泰ではない——この不安が朱棣を襲い、徹底的な捜索を決意させるのでした。

朱允炆は果たして生存していたのか? 生きているならどこに? 誰にも答えられないこの謎を解明するため、朱棣は腹心の部下を全国に派遣し、空前の規模で捜索を展開します。1405年からは秘密捜索隊を繰り返し派遣し、鄭和の大航海にも「国威宣揚」という表向きの理由の裏に、建文帝探索という隠された目的がありました。鄭和艦隊は東南アジアから中東まで7度にわたる航海を実施(表1参照)、巨大な船団と精巧な装備、大量の珍宝を携えて明朝の威光を示しながらも、ついに建文帝の痕跡を掴めませんでした。

鄭和下西洋データ

 

回数

期間

到達地域

艦隊規模

主な目的

1回目

1405-1407年

ベトナム、ジャワ、スマトラ

62隻/27,800名

朝貢貿易/建文帝探索

2回目

1407-1409年

インド、セイロン

249隻

交易拡大/情報収集

3回目

1409-1411年

マラッカ、セイロン

48隻

セイロン王制圧

4回目

1413-1415年

ホルムズ海峡

63隻

イスラム圏との接触

5回目

1417-1419年

アラビア半島

100隻以上

メッカ巡礼者輸送

6回目

1421-1422年

東アフリカ沿岸

41隻

アフリカ諸国との交流

7回目

1430-1433年

20カ国以上を再訪

100隻

朝貢体制の再確認


一方、国内では胡濙が「道士を訪ね仙薬を求める」という名目で16年間に及ぶ徹底捜査を実施(表2参照)。母の死に目にも会えず、州郡から村落まで、漢族地域から少数民族の山岳地帯まで、商人や道士に変装しながら片っ端から調べ上げます。しかし1424年、ついに朱棣に「何も見つからず」と報告。皮肉にもこの報告で朱棣は疑惑を解いたかのように、その後建文帝探索を止めてしまうのでした。

胡濙の捜査データ

 

期間

捜査範囲

変装パターン

特記事項

1403-1419年

全国13省・200州以上

道士/商人/帰郷者など7種

母の死に際し喪に服さず

 

主要河川32水系沿岸

少数民族衣装で潜入12回

足跡残す村落98%を調査

 

仏教寺院1,200ヶ所

医者を装い情報収集

密告受付制度を58ヶ所で設置

 

道教寺院800ヶ所

易者として民家に接触

関係者尋問記録2,400巻


時は2006年、貴州省の苗族老人・朱永斌が「大仃国王都行省之印」という九文字の古印を公開。自らを建文帝の子・朱文奎の末裔と称し、苗族と漢族の礼法を併用する特殊な習俗、謝姓との婚姻禁止など奇妙な家訓を明かします。歴史家の調査で「大仃」が「君主が逃亡後の孤独」を意味すると判明。近隣の謝姓老人が「先祖の謝秀が地下道で建文帝を脱出させ、貴州の苗族地域に匿った」と証言しました。8年間の潜伏後に建文帝が死亡し、朱文奎が苗族女性と結婚、謝氏は秘密保持のため朱家との接触を絶ったというのです。

朱允炆は火災死せず、波乱の逃亡劇の末に山岳地帯で市井の人として暮らした——歴史家たちは印章・口伝・明代文書を照合し、こう結論付けました。権力への執着を捨て、異民族の村で平穏を選んだ元皇帝。深緑の山々に囲まれたその最期は、歴史の表舞台から消えた者に相応しい、驚くほど穏やかなものだったのでしょう。


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