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劉邦は能力が高いのに、なぜ40代になるまで無名だったのか?

貴方が言う「一事無成」が劉邦が階級上昇を果たせなかったという意味なら、それは確かに事実である。春秋戦国以来、庶民が階級上昇を実現する方法はただ一つ、権力者官僚の食客となり、その者に認められ任用され官界や戦場に導かれることだった。成功すれば侯爵や宰相に封じられ、失敗すれば身も族も滅ぼされた。食客は主君の推薦で官界に入り、主従間に非常に強固な人的隷属関係が形成された。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

貴方が言う「一事無成」が劉邦が階級上昇を果たせなかったという意味なら、それは確かに事実である。

春秋戦国以来、庶民が階級上昇を実現する方法はただ一つ、権力者官僚の食客となり、その者に認められ任用され官界や戦場に導かれることだった。成功すれば侯爵や宰相に封じられ、失敗すれば身も族も滅ぼされた。食客は主君の推薦で官界に入り、主従間に非常に強固な人的隷属関係が形成された。この主従関係から君臣関係へ転化した政治的紐帯は、察挙制や九品中正制、科挙制下の推薦者と被推薦者、師弟関係よりも強固だった。例えば藺相如が官界入り後、廉頗に軽蔑されたのは宦官の食客であり宦官の推薦で登用されたためである。

魏冉や呂不韋、戦国四公子らは食客を招くことを好み、彼らを政務処理や参謀役、官吏推薦、書籍編纂に任用したり、私兵組織や暗殺・軍変実行、将軍推薦に用いたり、あるいは邸宅管理や田租・高利貸徴収などに当たらせた。中でも傑出していたのは信陵君魏無忌である。信陵君がスパイ網を構築したという説があるが、実際は食客社会における彼の信望ゆえ、各国の王侯将相の食客たちが「次の主君」を探す際に自然と情報が集まったに過ぎない。趙国にそのような食客がいたなら、秦になぜいないことがあろうか?信陵君が二度にわたり秦軍を破った背景にはこの要素が影響していたと考えられる。

春秋末期から独特の食客文化が形成され、豫譲の「士は己を知る者のために死す」という言葉が信条となった。主君も食客もこの規範を意識的・無意識的に実践し、主君が食客を過剰に礼遇したり越級抜擢したりした場合、その食客は命を賭して報いる必要があった。例えば信陵君が門番の侯嬴と同車に乗ったことで、侯嬴は死をもってこの信任に報いた。これが劉邦の評価が唐宋以降に急落し、諸葛亮の評価が急上昇した理由である。科挙制実施後、食客文化は急速に衰退し、後世は当時の社会情勢を理解せず、劉邦が韓信を殺したことだけを記憶する。しかし当時の社会では、劉邦が韓信に大将軍の台を築き越級抜擢した時点で、韓信は死をもって報いる義務があった。斉王を要求した行為は当時の倫理に反するものであった。諸葛亮が「死力を尽くして後已む」とし、後世の帝王が愚忠を称賛するのは、諸葛亮自身が劉備の三顧の礼への報いと考えていたに過ぎない。

「軍功昇爵制」による階級上昇は子供騙しに過ぎず、免税や土地分配、爵位数段階上昇が限度で、郷里で小地主になるのが関の山である。庶民が戦場で武功を立て侯相になるなど、富士康でねじ締め作業をしながら社長になるようなものだ。

春秋末、孔子がプロメテウスのように知識を庶民に開放し私学を創始、百家争鳴が起こり新興知識階層が形成された。市場経済の発展と都市の興隆は社会遊離層を生み、遊侠階層の基盤となった。戦国時代の戦乱で旧貴族が没落し新貴族が台頭する中、この文武両階層が諸国を遊説するようになった。ただし諸子百家(墨家を除く)は上層路線を採り、遊侠は民間基盤を持ち権力者と結びつき、従来の「士農工商」に第五の要素として地域横断的影響力を形成した。

このような背景で生まれた劉邦は父兄の安定生活をよそに遊侠豪傑と交際した。太公は反対せず、弟の劉交は彼に従ったが、兄嫁は頻繁に客人を連れ込む劉邦を疎んだ。

劉邦は努力を怠らなかった。少年期から信陵君を崇拝し、経済力がつくと魏に赴いたが既に死去していた。後に遊侠張耳の食客となるが、秦の魏国征服で張耳が追放され、劉邦は挫折した。

中年に至り劉邦は泗水亭長の職を得て呂雉と結婚する。これは一見順調に見えるが、実は彼の諦めの表れだった。秦の吏と官は別体系で、吏職は彼の自尊心を傷つけた(「廷中吏無所不狎侮」「高祖為亭長時、常告帰之田」「高祖為亭長、素易諸吏」等の記述)。呂雉との婚姻も、本来遊侠が求める「富豪と豪族の婚姻」とは異なり、地方豪族としてのプライドとの葛藤を生んだ。

 

表:劉邦前半生の主な出来事
 

時期

年齢

事柄

影響

前259年

出生

沛県に生誕

 

前240年代

10代

信陵君に憧れ

遊侠志望形成

前225年

34歳

張耳の食客となる

人脈形成

前223年

36歳

秦の魏国征服で張耳逃亡

挫折

前220年

39歳

泗水亭長就任

諦めの選択

前215年

44歳

呂雉と結婚

現実妥協

前210年

49歳

始皇帝死去

転機到来

前209年

50歳

陳勝・呉広の乱勃発

決起の契機


表:戦国時代主要遊侠勢力比較
 

人物

所属国

食客数

主な活動

歴史的影響

信陵君

3000人

合従連衡、秦軍撃破

六国抵抗運動象徴

春申君

3000人

政治改革推進

楚国中興の礎

孟嘗君

食客数千

権力闘争

斉秦関係激変

平原君

数千人

文化振興

邯鄲保衛戦指導

呂不韋

3000人

『呂氏春秋』編纂

秦統一思想準備


泗水亭長時代の劉邦は複雑な心境にあった。咸陽で始皇帝の行列を見て「大丈夫たるものはかくあるべし」と嘆息した壮年の野望、張耳邸での遊侠たちとの議論、少年期に聴いた信陵君伝説が交錯する。紀元前209年、刑徒を護送中に逃亡者が続出した際、劉邦は残った者たちを解放し自らも逃亡を決意する。この時点で彼には未来が見えていなかったが、歴史は秦の崩壊と楚漢戦争へと向かうことになる。

芒砀山に入った劉邦は、自らの運命が「蒼天を翔ける鷹」となるか「野良犬」となるかの岐路に立っていた。当時は誰も予想しなかったが、この中年男がやがて漢帝国を打ち立て、中国史上最も長く続いた王朝の基礎を築くことになる。


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