劉秀が漢王朝を再興した後、なぜ長安を都とせずに洛陽に遷都したのか?
前漢の成立から後漢の定都問題まで――洛陽と長安を巡る歴史的選択かつて劉邦が漢王朝を建てた際、長安を都と定め、200年以上にわたって国家の基盤を築いた。しかし長安定都以前、劉邦は洛陽への遷都を検討していたことがあった。
前漢の成立から後漢の定都問題まで――洛陽と長安を巡る歴史的選択
かつて劉邦が漢王朝を建てた際、長安を都と定め、200年以上にわたって国家の基盤を築いた。しかし長安定都以前、劉邦は洛陽への遷都を検討していたことがあった。婁敬と張良の進言を受けて最終的に長安を選んだ経緯がある。張良が洛陽を「方数百里に過ぎず、土地が痩せ、四方から攻撃を受けやすい軍事的要地ではない」と指摘したことが決定的な理由となった。
後漢を興した光武帝劉秀は、この「張良の指摘」を知りつつも旧都長安に戻らず洛陽を都とした。その背景には以下のような複合的な要因が存在する。
【初期定都の経緯】
時期 |
事件内容 |
出典 |
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25年6月 |
劉秀が鄗城で即位 |
『後漢書』 |
25年9月 |
洛陽守備軍を降伏させる |
『資治通鑑』 |
25年10月 |
洛陽入城と同時に都と定める |
『資治通鑑』巻40 |
26年 |
長安を制圧 |
『後漢書』光武帝紀 |
30年 |
隗囂討伐開始 |
『後漢書』隗囂伝 |
36年 |
公孫述平定により天下統一 |
『後漢書』光武帝紀 |
地政学的要因比較表
項目 |
長安(関中) |
洛陽(中原) |
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地理的条件 |
四塞の地(函谷関・武関・散関・蕭関)に囲まれた天然の要害 |
四方平坦で「四戦之地」と呼ばれる開放地形 |
経済基盤 |
肥沃な関中平原(戦国時代の秦が開発) |
河内・河南・河東の三河地域(戦国魏の経済圏) |
軍事的重要性 |
西方防衛に優位(匈奴対策) |
東方支配の要衝(豪族統制) |
支持基盤 |
関中豪族(前漢以来の伝統勢力) |
河北突騎・南陽豪族(光武帝直系勢力) |
儒教的正当性 |
法家思想に基づく「以関制関東」戦略 |
儒家が提唱する「天下之中」思想 |
交通の要衝性 |
西域へのシルクロード起点 |
大運河の中継点としての経済価値 |
劉秀が洛陽を選んだ直接的要因は、当時の軍事情勢にあった。更始帝配下の朱鮪が守る洛陽を制圧した時点で、長安は赤眉軍との抗争で荒廃していた。天下統一の過程で、光武帝軍の主力となったのは漁陽突騎(幽州の精鋭騎兵)と河内の経済力であった。これら東方勢力の補給線を考慮すると、洛陽が最適な前線基地となった。
さらに政治的判断として、関東豪族との関係が決定的な影響を及ぼした。前漢が実施した「陵邑制度」(関東豪族の強制移住政策)への反発が根強く、劉秀政権を支える南陽豪族集団が長安遷都に強硬に反対した。『後漢書』班彪伝には「関中の長老たちはなお朝廷の西顧を望んだ」とあるが、建武年間に提出された杜篤の『論都賦』や傅毅の『洛都賦』は、儒家思想を根拠に洛陽の優位性を主張している。
光武帝自身の思想的背景も看過できない。王莽政権崩壊後の混乱を経験した劉秀は「柔道治国」を掲げ、儒家思想を重視する姿勢を明確にしていた。荀子の「王者必居天下之中」という理念が、儒臣たちの遷都反対論に理論的根拠を与えた。ただし建武18年(42年)には長安郊外で明堂・霊台・辟雍を修復し、定期的な西方巡幸を行うなど、前漢への敬意を示す姿勢も併存させていた。
最終的に洛陽が選ばれた背景には、以下の要素が複合的に作用している:
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即時的な軍事的必要性(東方諸勢力の早期平定)
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経済基盤の地理的合理性(河内・河北との連携)
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支持基盤の政治力学(関東豪族の意向)
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思想的正当性(儒家理念の受容)
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前漢体制からの意図的差異化
この選択が歴史に与えた影響は甚大であった。後漢王朝は洛陽を中心に官僚機構を再編し、豪族連合政権としての性格を強めていく。結果的に「関中本位」から「中原中心」への地政学的転換が起こり、魏晋南北朝時代へ続く新しい国家モデルが形成される端緒となった。光武帝の都選択は、単なる地理的問題を超え、古代中国の政治構造変革を象徴する重大な転換点であったと言える。