韓信の処刑は必然的だったのか?
刘邦の立場からすれば、韩信が必ず反逆すると考えざるを得なかった。なぜなら韩信には謀反の全ての条件が揃っていたからだ。韩信には威望と求心力があった。樊哙といえば刘邦配下のトップクラスの大将軍だが、彼は韩信の熱烈なファンだった。韩信が淮陰侯に左遷された後、暇さえあれば樊哙の家を訪ねていたが、『史記』には樊哙が跪いて送迎し「大王がわざわざ臣のところにおいでくださるとは!」
刘邦の立場からすれば、韩信が必ず反逆すると考えざるを得なかった。なぜなら韩信には謀反の全ての条件が揃っていたからだ。
韩信には威望と求心力があった。樊哙といえば刘邦配下のトップクラスの大将軍だが、彼は韩信の熱烈なファンだった。韩信が淮陰侯に左遷された後、暇さえあれば樊哙の家を訪ねていたが、『史記』には樊哙が跪いて送迎し「大王がわざわざ臣のところにおいでくださるとは!」と臣下の礼を取った様子が記されている。樊哙は刘邦の古参の兄弟分で戦功も抜群なのにこの有様、他の者など言うまでもない。
韩信の年齢も問題だった。韩信は刘邦より25歳若く、刘邦が亡き後は彼を制御できる者はいない。下記の比較表を見ればその危険性が明らかだ:
項目 |
刘邦 |
韩信 |
---|---|---|
生年 |
前247 |
前231 |
年齢差 |
25歳年上 |
- |
彭城の戦い時年齢 |
50歳 |
25歳 |
死亡年齢 |
62歳 |
35歳 |
さらに疑わしい行動歴があった。かつて蒯通が天下三分を献策した話は刘邦の耳に入っていたし、後には実際に陈豨と謀反を計画していた。
「璧を持てば罪なき匹夫も咎められる」とはこのことだ。では萧何のように汚職や女遊びで野心がないと見せかけられなかったのか?つまり「韩信の処世術がもう少し上手ければ」という意見があるが、これは3歳児の戯言としか思えない。政治闘争は生死をかけた戦いだ。他人の利益を侵害した者に、どんな処世術があろうと恨みを消すことなどできない。
古代の政治闘争は現代と違って命懸けだった。自分だけでなく家族の命までかかっている。現代の政争が失脚や収監で済むのとは次元が違う。たとえば昇進争いで王さんが選ばれれば、李さんはどれだけ慰められても恨みを抱くものだ。恨みがないとすれば、それは諦めて表立って反抗しないだけの話である。
人事問題は単なるポスト配置のように見えて、実は血の通った人間同士の利害が絡み合う政治そのものだ。政治とは権力を争う闘いであり、権力とは利益を分配する能力である。限られた資源を巡る争いこそが人事の本質だ。
項羽との比較で言えば、刘邦はあらゆる面で劣っていた。挙兵時刘邦は50歳近く、項羽は25歳で巨鹿の戦い(秦軍30万vs楚軍5万)を勝利に導いた。彭城の戦いでは刘邦軍が項羽の3万騎兵に大敗し、子供を捨てて逃げる有様だった。項羽は楚の名門出身で天下の支持を集め、虞姫のような絶世の美女を側に置いていた。韩信や陈平も最初は項羽に仕えようとしたが、項羽は彼らを使いこなせなかった。刘邦は己の未熟さを自覚し、人材登用で弱点を補ったのである。
項羽敗北の根本原因は、刘邦より20歳以上若かったことにある。軍事の天才でも政治的未熟さが災いした。権力とは恐怖で支配するものではなく、人心を掌握するものだと理解していなかった。だが25歳で秦軍40万を破った彼の武勇は紛れもない事実だ。現代人に同じことができるか?戦場で脳みそが飛び散る光景を見たら普通は卒倒するだろう。
歴史に名を残す人物には必ず真の実力がある。赵高でさえ、秦の法令を暗記する記憶力と李斯に匹敵する書の才能を持っていた。ドラマの解説で「赵高や韩信の処世術を学べ」などと書く視聴者がいるが、実に滑稽だ。彼らを真似ようとする前に、まず彼らの持っていた桁外れの能力に気付くべきだろう。