なぜ世間は霍去病ではなく韓信を兵仙として崇めるのか?
中国の戦争芸術を理解するには、数字や伝記ではなく地図を見る必要があります。もしあなたが韓信の「明修桟道、暗度陳倉」を沙盤演習で再現できれば、この人物がいかに神的な存在かわかるでしょう。私の見解では、カルタゴのハンニバルがアルプス雪山を越えて象軍団を率いてローマを背後から襲った偉業に匹敵します。
中国の戦争芸術を理解するには、数字や伝記ではなく地図を見る必要があります。
もしあなたが韓信の「明修桟道、暗度陳倉」を沙盤演習で再現できれば、この人物がいかに神的な存在かわかるでしょう。私の見解では、カルタゴのハンニバルがアルプス雪山を越えて象軍団を率いてローマを背後から襲った偉業に匹敵します。
紀元前206年初頭、劉邦は10万の反乱軍を率いて秦の都咸陽へ迫りました。秦王子嬰が降伏し、秦王朝は滅亡。項羽は劉邦が先に咸陽入りしたことに激怒し、劉邦軍が撤退した後に40万の大軍で咸陽に入城。兵力を恃みに西楚の覇王を自称し、劉邦を辺境の巴蜀・漢中(現在の四川省と陝西省南部)を統治する漢王に封じました。一方、豊かな関中地方には秦の降将3名を封じ、劉邦の関中再入を阻止しようとします。
劉邦は兵力で項羽に敵わず、封号を受け入れ都城南鄭(現在の陝西省)へ向かいました。途中、謀臣張良は「諸侯軍の奇襲を防ぎ項羽を油断させるため」と、通過した数百里の桟道を全て焼き払うよう進言。劉邦がこれに従うと、項羽は安心しました。
同年8月、劉邦は項羽に反旗を翻す者が現れた機を捉え関中へ進軍。大将韓信の計略に従い、数百名の兵士を桟道修復に派遣し、桟道から攻撃するかのように見せかけました。関中を守備する秦の降将章邯は「劉邦が自ら桟道を焼いたのに修復とは。数百人では何年かかるか」と冷笑しました。
しかしこれこそが韓信の真骨頂でした。桟道修復は陽動作戦で、本当の目的は陳倉への奇襲進攻。韓信は修復作業を装いながら主力軍を故道から急進させ、陳倉を攻略。章邯が救援に駆けつけた時は既に手遅れで、韓信は関中百姓の支持を得て咸陽へ再入城。これが項羽撃破と漢王朝成立の礎となりました。
文字だけ読むと平凡に思えますが、地図を開けば全く異なる物語が浮かび上がります。
【関中進攻ルート比較表】
ルート名 |
距離(里) |
所要日数 |
険阻度 |
主な通過地点 |
使用勢力 |
祁山道 |
680 |
25日 |
★★★★ |
西県、下辨 |
曹参・樊噲 |
陳倉道 |
550 |
18日 |
★★★☆ |
散関、陳倉 |
韓信主力 |
褒斜道 |
470 |
30日 |
★★★★★ |
褒中、斜谷 |
陽動作戦 |
傥駱道 |
420 |
28日 |
★★★★☆ |
駱谷、華陽 |
未使用 |
子午道 |
330 |
15日 |
★★★★ |
子午谷、咸陽 |
灌嬰 |
関中へ通じる五つのルート(祁山道・陳倉道・褒斜道・傥駱道・子午道)はいずれも天然の要害で、特に陳倉道は他のルートに比べ遠回りでした。韓信は戦備を整える際、張良が焼き払った褒斜道の修復を老弱兵に命じ、敵を攪乱。しかしこの陽動作戦は凡将ならともかく、項羽と半年以上戦った章邯を欺けるものではありませんでした。
劉邦陣営の関中奪還作戦で「明修桟道」が果たした役割は限定的で、敵の注意を褒斜道の防衛に向けさせることが主目的でした。韓信の真の戦略は「四面煙幕」作戦にあり、残る三つの煙幕が「三路出撃」による敵の防御重点の撹乱でした。
【漢軍三路布陣】
部隊 |
指揮官 |
兵力 |
進軍ルート |
目標地 |
移動速度 |
補給線長 |
西路军 |
曹参・樊噲 |
2万 |
祁山道 |
涼州 |
日行30里 |
400里 |
主力軍 |
韓信 |
5万 |
陳倉道 |
陳倉 |
日行40里 |
300里 |
奇襲部隊 |
灌嬰 |
1.5万 |
子午道 |
咸陽 |
日行35里 |
250里 |
予備隊 |
周勃 |
1.5万 |
待機 |
機動支援 |
- |
- |
この布陣は「優勢兵力の集中」という軍事常識に反していましたが、秦嶺の天然の要害では大軍団の優位性が発揮できず、多路進攻で敵の判断を混乱させる必要があったのです。章邯ら三秦王の兵力は咸陽守備時の数万人に過ぎず、劉邦の「法三章」に感化された者も多数漢中へ移っていました。
これに対し劉邦は漢中での再編で10万の軍勢を整え、蕭何の補給システムにより十分な兵站を確保していました。多路進攻で敵の限られた兵力を分散させ、局部で圧倒的優位を作り出す——これが韓信戦術の真髄でした。
西路军の樊噲・曹参が西県と下辨を攻略すると、章邯は「漢軍が涼州へ侵攻」と誤認。この隙に韓信は水路で彼らを陳倉道へ急行させ、主力と合流させます。当時の通信・移動手段を考えると、数万の軍勢を400里もの険路で移動させる補給管理は天文学的な難事でした。
漢軍主力が陳倉を包囲すると、章邯はようやく韓信の「黒虎掏心(核心を突く)」戦術に気付きますが、時既に遅し。激戦の末、陳倉防衛線は突破され、章邯は西北の要衝・雍城を放棄し、本拠地の廃丘へ撤退を余儀なくされました。
【主要戦闘データ】
戦闘名 |
参加兵力 |
戦闘日数 |
死傷者数 |
攻略拠点 |
補給消費量 |
陳倉の戦い |
漢5万 vs 秦1.8万 |
7日 |
漢3,000 / 秦8,000 |
陳倉 |
糧秣2万石 |
好畤包囲戦 |
漢3万 vs 秦1.2万 |
15日 |
漢2,000 / 秦5,000 |
好畤 |
糧秣3.5万石 |
咸陽攻略戦 |
漢4万 vs 秦2万 |
3日 |
漢1,500 / 秦1万 |
咸陽 |
糧秣1.8万石 |
韓信は廃丘を包囲したまま塞王司馬欣を攻略し、翟王董翳を降伏させます。章邯が反撃の機会を伺う中、曹参は章平・姚卬連合軍を撃破。最終的に周勃が涼州で章平を生け捕りにし、漢軍は廃丘城下に集結しました。
この戦役で特筆すべきは、韓信が常に「敵の有生戦力を殲滅」に焦点を当てた点です。城郭の占領より敵軍の撃滅を優先し、追撃戦で決定的打撃を与え続けました。諸葛亮の祁山出兵とは異なり、韓信は地理的制約を逆手に取った機動戦で圧倒的勝利を得たのです。しかしこの天才的戦術は、後の武都大地震で陳倉道が崩壊したこともあり、再現されることはありませんでした。