現在の位置:トップページ > 漢の盛世輝煌

劉邦と比べ、劉備の弱点はどこにあったのか? なぜ天下統一を果たせなかったのか?

劉邦の個人の魅力と戦略的高度性は間違いなく劉備を上回っている。この差は後期の漢中から関中への進出で現れたのではなく、創業初期段階から存在していた。この問題を理解するには参照物——張良と諸葛亮——を引き合いに出す必要がある。劉邦は紀元前209年末に挙兵し、翌年には早くも張良と出会い、彼を廐将に任命している。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

劉邦の個人の魅力と戦略的高度性は間違いなく劉備を上回っている。この差は後期の漢中から関中への進出で現れたのではなく、創業初期段階から存在していた。

この問題を理解するには参照物——張良と諸葛亮——を引き合いに出す必要がある。

劉邦は紀元前209年末に挙兵し、翌年には早くも張良と出会い、彼を廐将に任命している。ここに2点注目すべきポイントがある:

第一に、劉邦と張良が出会った時、劉邦は敗軍の将だった。雍歯の裏切りに遭い、偽楚王景駒の下へ援軍を借りに行く途中で張良と遭遇した。

第二に、当時の張良の社会的威信は劉邦を完全に凌駕していた。家柄を重んじる秦末期において、張良は韓国宰相の家系であり、全国的に名を知られた反秦義士だった。

張良がどこに行っても上賓扱いを受ける中、彼は本来景駒に仕えるつもりだった。しかし劉邦と語り合った後、劉邦を「奇才」と見做し、わずか数県を領有し本拠地を失った小軍閥に身を投じた。現代風に例えれば、馬雲がアリババを創業した時期に高盛のナンバー2が加わるようなものだ。これは決して誇張ではない。

数ヶ月後、劉邦の知恵と張良の信用力が試される時が訪れる。景駠から借りた兵で雍歯を攻撃するも再び敗北。さらに景駒が項梁に殺害され、劉邦は新たな主君を探さねばならなくなった。

この状況(劉備が頻繁に直面したもの)で、張良は決定的な分析を提示する:

 

勢力比較

楚(項梁)

指導層

名目上の楚王(実権なし)

旧王族(実権あり)

旧王族(実権あり)

発展可能性

人脈

張良と項梁に旧交

敵対関係

中立


張良は「項梁との縁故」を活かし、劉邦に楚陣営への帰属を進言。項梁は劉邦に兵を貸し、雍歯討伐を支援した。これが後の楚漢戦争へ繋がる転換点となった。

対照的に劉備の場合、194年時点で陶謙から徐州を譲り受けた状況を考えよう。もしこの時期に諸葛亮を得て、彼が「献帝を奉じて諸侯を号令すべし」と進言し(実際は荀彧の献策)、曹操と同盟して袁術討伐に向かう戦略を立てられたなら——まさに劉邦が張良と成し遂げたような飛躍が可能だったかもしれない。

しかし現実には、荀彧クラスの人材(張良の縮小版)すら劉備陣営に集まらなかった。この事実が両者の創業期における決定的な差を物語っている。下表は両者の初期人材獲得を比較したものだ:

 

比較項目

劉邦(前209-前206)

劉備(194-207)

最高参謀

張良(旧韓貴族)

孫乾(文官)

将軍クラス

曹参・樊噲

関羽・張飛

他勢力からの招聘

項梁軍から兵5,000

陶謙から丹陽兵4,000

地盤

沛県→項梁傘下

徐州→曹操に奪取

戦略提言

武関迂回作戦(張良)

なし(諸葛亮未参加)


このデータが示す通り、劉邦は創業早々に超一流の戦略家を陣営に組み込み、その知恵を最大限活用した。一方劉備は長年「戦略的羅針盤」を欠いたまま流浪を続け、諸葛亮登場まで体系的戦略を構築できなかった。これが両者の「創業力格差」を決定づけた本質的要因と言えるだろう。


トップに戻る